【万U引力の法則】                        

秋の入口にさしかかった夏の終わり。
穏やかな木漏れ日の中に僕らは座っていた。
アールグレイの香りを楽しみながら読むシェリーの詩集。
彼女は隣でワーズワースを開いている。

「もう!」
長い髪を掃いながら不意に彼女が癇癪。
「どうしたんだい?」
本を読む手を止めて尋ねる僕。
「風に舞った枯れ葉が私の髪に纏わり付くのよ」
恨めしげに見上げた枝からまた数枚の落ち葉がひらり。

僕は彼女の髪から一枚の葉を取り詩集の栞にして彼女に言った。
「キミの引力が葉を呼ぶんだね」
「私に引力があるの?」
目を丸くして聞き返す。
「あるさ。質量を持つ全ての物質には引力があるんだよ」
いつか読んだNewtonに書いてあった。

「でも、私は木の葉に引き寄せられないわよ」
「それはね、木の葉の質量が小さいから引力も小さいせいさ」
ふ~ん。
そんな雰囲気の表情。

「だから最終的にみんなこの大地に居るのさ。大きな地球に引き寄せられているんだ」
僕がそう言葉を続けると突然彼女が頭を僕の肩に乗せた。
僕が不思議そうな顔をすると
「貴方の存在が地球より大きいの」
クスクスと悪戯っぽく笑いながらそう言った。



【花物語・紫陽花】

「麻衣子、庭の紫陽花は摘んでくれたかい?」
雅彦は線香とロウソクを確かめると車のキーを手にした。
「ごめん、パパ。結菜に頼んじゃった。お弁当が間に合わなくて」
「そういや麻衣子は遅くまで勉強してたからな。寝坊はママも許してくれるよ」
雅彦はそう言って笑うと庭の様子を見た。
庭では結菜が見栄えする紫陽花を選んでいた。
「ありがとう、結菜。結菜が気に入ったので良いからね」
雅彦の言葉に振り向いた結菜は大きく頷くと「ママの好きだった紫陽花の花言葉は何?」と尋ねた。
雅彦は「家族だよ」と答えると車に荷物を積み始めた。
「ホントかなぁ。パパ、結構適当だからなぁ」
結菜は聞いておきながら失礼だ。
「パパ、紫陽花の花言葉は・・・」
麻衣子は父の威厳を損なわないよう小声で耳打ちをしようとしたが、雅彦は首を振ってそれを制した。
そして殊更に優しく笑うと少しだけ昔の話を始めた。

雅彦と真理亜は小さな教会で式を挙げた。
互いに身寄りの無かったふたりの式には神父の他には誰もいない。
そんなふたりだったから家族への憧れは強く、結婚の翌年には麻衣子が。
翌々年には結菜を授かった。
新たな天使の訪れと同時に、真理亜は癌の宣告も下されていた。
癌の治療は結菜を諦める事を意味していた。
そして真理亜は自分ではなく結菜を選んだ。
雅彦はそれから毎日病室を見舞った。
6月のある日、庭の紫陽花を見せたかった雅彦はそれを摘んで病室を訪れた。
「雨露にとても綺麗だったんだ」
そう言って差し出された紫陽花の花束。
真理亜は嬉しそうに受け取ると愛おしそうに花弁に触れた。
「私、紫陽花の花がとても好き」
雅彦は真理亜の言葉を自分への気遣いだと一瞬そう思った。
「ねえ、紫陽花って小さな花びらが寄り添ってひとつの花を作っているみたいでしょ」
真理亜はそう言って雅彦に紫陽花を向けた。
「ほら、寄り添って暮らす家族みたい。いつかこうなりたいってずっと思っていたのよ」
それは誰に向けた言葉だったのだろう。
真理亜は大きく膨らんだお腹を撫でながらそう言った。

「だから紫陽花は家族の花なんだ」
雅彦は麻衣子の頭を撫でて言った。
麻衣子は幼い頃に亡くした母親の遺影を強く抱きしめていた。
普段は話さないパパの思い出に母親の面影を見たような気がしていた。
麻衣子は雅彦の顔を見て無言で頷いていた。
「パパぁ。やっぱり紫陽花の花言葉、違うじゃん」
紫陽花の花束を抱えた結菜がふてくされた声を出して歩いてきた。
「いいのよ、結菜。花言葉は家族なの」
麻衣子は小さく笑ってそう言った。





【LUNA】

リストラされたのが半年前。
失業保険が切れたのが3ヶ月前。
住んでいたアパートを家賃滞納で追い出されたのは10日前。
炊き出しの存在を知ってこの公園に来たのが7日前。
ここで知り合ったゲンさんに連れられてホームレスのイロハを教わったのが3日前。
僕は順調に坂道を転げ落ちていた。

ゲンさんは仲間達に僕を紹介してくれた。
僕はここで寅さんと呼ばれることになった。
リストラのトラだそうだ。
トラウマが通り名になるとは思わなかった。
僕に寅さんと名付けたのはシャチョウだった。
嘘か本当かは分からないが、ホームレスになる前は社長だったらしい。
僕はこのシャチョウに不思議な興味を持った。

シャチョウは毎朝4時に起きる。
あまり汗をかかないように、早朝の涼しい時間に公園をランニングする。
そしてまだ薄暗い5時頃に水飲み場の水道で頭を洗い、濡らしたタオルで身体を拭く。
明るくなる頃には身支度を整えて、日雇い人夫の仕事に出掛ける。
シャチョウはその為にプリペイド携帯を持っている。
夕方、仕事を終えて戻ったシャチョウはコンビニ弁当を食べる。
それも1番安い弁当だ。
唯一の贅沢が缶入りのお茶。
それもどんなに暑い日でもホットを飲む。
そうして8時には寝て、翌朝4時起きの繰り返し。
おおよそホームレスとは思えない生活だった。

ホームレス代表のゲンさんの生活は、目が覚めたら起きて、金があれば酒を呑んで、無ければリヤカー借りてダンボール集め。
1日歩いて千円稼いで五百円のレンタル代を払った残りでカップ酒とツマミ。
炊き出しのある日はリッチにビールだ。

ある日、僕はゲンさんにお願いしてダンボール集めを紹介してもらった。
1日やってみたが、手元に残ったのは三百円。
なるほど奥が深い。
でも僕の目的はダンボール集めの職を得ることではなく、きっかけを手に入れることだった。

ビルの電光掲示板に出された翌日の天気予報は100%の雨予報。
僕はそれを確認するとシャチョウの所を訪ねた。
暖かいお茶と焼酎、それから多少のツマミ。
リヤカー稼業数日分だ。
シャチョウは驚きながらも僕を受け入れてくれた。
ダンボールの一戸建てで細やかな飲み会。
シャチョウは勧めた焼酎のお茶割りを美味しそうに飲む。
昔はよく飲みに行ったりしていたらしい。
僕はリストラされた話をしながら本題へと話をシフトしていった。
「シャチョウは本当に社長だったんですか?」
「昔、な」
「倒産ですか?リストラされた身としては身につまされます」
シャチョウは僕を見て少し遠い目をしながら「譲った」と言った。
「あ、僕はてっきり借金返済の為に毎日働いているのかと思いました」
シャチョウの勤勉振りがますます不思議になった。
シャチョウは僕の言葉に小さく笑うと「少し出ようか」と言って公園を歩き始めた。

明日が雨とは思えないほどに月明かりに蒼く照らされた公園は何処か幻想的で、僕は今、自分がホームレスになった夢を見ているような錯覚を覚えそうだった。
現実は僕もシャチョウもホームレスに違い無いのに。
ほどなくしてシャチョウは語り始めた。
「妻と娘が居たのだが離婚をしてね。私から切り出して全財産と会社を譲ってホームレスになったんだ」
「えっ、浮気とかの代償ってヤツですか?」
我ながら下衆な物言いをしてしまった。
「・・・浮気か。そうか、これは浮気なのかもしれないね。寅さん、これは浮気だよ」
そう言うとシャチョウは笑い始めた。
僕には何が可笑しいのかさっぱり分からない。
少し困惑気味の僕に気付いたシャチョウはこんな昔話をしてくれた。

服飾デザインの学校を出たばかりのシャチョウは、尊敬するデザイナーの先生の事務所に入ってそのセンスを学んでいたそうだ。
夢中で先生を追いかけたシャチョウは徐々に頭角を現して1、2を争うスタッフに成長した。
でも順調だったのはそこまで。
先生を尊敬し、傾倒しきっていたシャチョウはどうしても先生のテイストの模倣の域を超えられずに伸び悩むようになってしまった。
そんな時に出逢ったのが瑠奈さんだった。

「あの日、瑠奈はそこのベンチに座っていたんだ」
シャチョウは木製の小さなベンチを指差した。
今夜のような蒼い夜の闇に、まるで白く浮かんだ月のような瑠奈さんを見てシャチョウは一瞬で心を奪われたそうだ。
そして天啓のようにデザインが閃いたらしい。
「私もね、どうしてあんなに大胆な行動に出たのかわからないよ」
思い返して照れ笑いするシャチョウはとても嬉しそうだった。
座る瑠奈の前に駆け寄った私は「モデルになってください!」と大声でお願いしたんだ。

瑠奈さんはビックリした表情をしてシャチョウを見上げたあと、クスっと微笑んで「はい」って言ってくれたそうだ。
後で聞いたら、シャチョウは月明かりの下でも分かるくらいに真っ赤な顔をしていのが可笑しくて思わずOKしたとの事。
「そしてね、その話をすると思い出したのかまた笑うんだ」
シャチョウは本当に嬉しそうだ。

ふたりはいつしか一緒に暮らし始めた。
今までのスランプが嘘だったようにシャチョウのデザインは変わった。
遠ざかっていた賞を取るようになり、業界でも期待の新星として話題をさらった。
「瑠奈が喜ぶ服を作ろうとしただけなんだ」
シャチョウの顔が急に曇った。

先生の勧めもあって独立。
小さなデザイン事務所を立ち上げたシャチョウ。
「私はね、とにかく瑠奈に似合う服を、喜ぶ服を作りたかったんだ。
だからブランド名はLUNAにしたんだ」
「えっ、LUNAってあの有名ブランドの社長がシャチョウ!?」
「会社はすぐに大きくなったよ。四畳半のアパートでひとつのカップラーメンをふたりですすっていたのがまるで嘘だったようにね」
「そんなに苦楽を共にして愛していた奥さんとどうして?」
僕がそう尋ねるとシャチョウは首を振った。
「瑠奈はね、ある日出て行ったんだ」

それは事業も軌道に乗ったシャチョウが瑠奈さんに結婚を申し込もうと決意した日。
予約したレストランに瑠奈さんは現れなかった。
「今のように携帯は無くてね。ずっと待っていたよ」
家に帰ると瑠奈さんの荷物も何も無かった。
【さよなら】の書き置きさえも無く、瑠奈さんは消えた。

「あれから私は別の女性と結婚して子供も生まれ家庭を築き、LUNAブランドを益々成長させた。そしてファッション界に確固たる地位を作り上げたのと引き換えに、家庭の居場所を喪っていた・・・と思い違っていた」
そう言って僕をジッと見つめた。
「さっき寅さんに言われて分かったんだ。私は浮気をしていた。結婚し家庭を持った私の心には常に瑠奈が居たんだ。冷めきった家庭は財産目的で私と結婚した妻が原因だと恨んでいたが違う。妻は誰よりも私を見ていたんだな。だから、私の心に居る誰かを感じていた」
シャチョウは大きく溜め息をついた。
「瑠奈の居ない人生と上手くいかない家庭に意義を見出せなかった私は自棄になっていた」
「だから全てを渡して世を棄てたんですね」
僕がそう言うとシャチョウは頷いた。
「そしてもうひとつ。奇妙な噂を聞いたんだ。都市伝説って言うのかな。夢に向かってひたむきな若者の背中を後押しする、成功に導く女性の噂」
「それは?」
「若者を導いて、時が満ちれば消え去る女神。もしかして逢えるかもしれないと思ったが、私の若者の季節はもうとうに過ぎ去ってしまっている」
人は寂しさと悲しさを瞳に宿すとこんなにも切ない表情を見せるのだろうか。
僕は気休めの言葉すら持てなかった。

「寅さんの夢はなんだ?」
不意にシャチョウが僕に尋ねた。
「作家です。僕は小説家になりたかった」
照れ臭くて親にも友達にも言えなかった夢。
今は素直に言えた。
「寅さん、【なりたかった】じゃない。【なりたい】だ」
シャチョウはそう言って笑うと片目を閉じた。
「いつかキミが彼女に逢えたら伝えてほしい。ありがとう、そして愛していると」

翌朝、シャチョウは公園から姿を消した。
僕のダンボールハウスに万年筆を置いて。


僕は今、小さな出版社で編集のアシスタントをしながら小説を書いている。
夢を抱く若者を成功に導く女神の物語。
女神のイメージは僕の彼女だ。
付き合ってもう1年。
ホームレスの日々を懐かしく、あの公園を散策した夜に出逢った彼女。
小説は明日には書き上がる。
だから今日、彼女に伝えなくちゃいけない。
「瑠奈、チョット来てくれ」

僕はようやく約束を果たせそうだ。