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プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

努力で勝ち取った、巨人の遊撃手といえば・・・

巨人 河埜和正さん です。

 

入団時の背番号は「61」 現在、巨人でショートを守っている、坂本勇人選手の入団時の背番号と同じ。

 

後に、その坂本選手に抜かれるまで、球団最多のショートでの出場試合記録(1370試合)を持っていたのが河埜さんでした。。

 

愛媛県の八幡浜工業高校時代は甲子園出場はなし、1969年ドラフト6位で読売ジャイアンツに入団します。

 

1971年に一軍初出場するものの、そこからは二軍出場がメイン。

 

1974年に黒江透修選手に代わり、レギュラーを獲得。ゴールデングラブ賞を受賞します。

 

バッティングもさることながら、特に魅了したのが、守備。

 

河埜さんは、通常のショートが守る守備位置からさらに2m下がり守っても、一塁送球でアウトにできる送球の持ち主。

 

ジャイアンツの2軍主戦場だった、多摩川グラウンドのグラウンドと芝生の境目の位置を変えるほどの肩の強さと広域の守備範囲の持ち主でした。

 

1979年に、背番号29から、黒江選手が付けていた、背番号5に。

 

1981年には開幕から1番ショートとして起用され、松本匡史選手、篠塚利夫選手と3名でクリーンアップへつなぐチャンスメーカーとして活躍します。その年はリーグ優勝。vs日本ハムの日本シリーズでも活躍し、シリーズの優秀選手賞を獲得しました。

 

活躍を続けていた、1985年4月16日の阪神戦 4回裏の守備。

 

いつも慣れ親しんでいるショートの守備。 

 

佐野仙好選手の放った、フライを落球。この落球をきっかけに、タイガースはこの回一挙7得点。翌日、あのバックスクリーン3連発が出て、21年ぶりの優勝に繋がるものとなりました。

 

河埜さんは、これをきっかけに、守備に対する精神的後遺症といわれるほど失策が続き、その後はショートのレギュラーとして戻ってくることはありませんでした。

 

その後、守備面では自分の守備を取り戻し、サードやセカンドを守ります。

 

いわゆる「イップス」は克服するものの、打撃面での衰えを感じ、1986年に現役を引退します。

 

引退後は、スカウトとして活躍し、1990年からコーチへ就任し、そこから十数年指導者として支えました。

 

河埜さんは、黒江選手の継承者としてレギュラーとして活躍。河埜さんがレギュラーから退いた後は、入団3年目の後の守備名手である川相昌弘選手が任せられるようになります。

 

努力の経験、苦悩の経験を伝えられる貴重な指導者です。

元祖、日本ハムのショーマンといえば・・・

 

日本ハム 広瀬哲朗 さん です!

 

現役選手だと、杉谷拳士選手。岩本勉や、新庄剛志、森本稀哲選手など、ファンに対してパフォーマンスで応える姿勢の源流は広瀬さんです。

 

広瀬さんは、富士宮北高校から駒澤大学へ進学。リーグ戦出場99試合で100安打。ベストナイン(ショート)4回選手されます。

 

そして、1982年にドラフト4位でヤクルトスワローズから指名されるものの、上位指名でないため拒否。

 

本田技研工業へ就職し、都市対抗野球大会に2年連続で出場します。実は卒業単位が足りず、働きながら単位を取得し、大学卒業を迎えたそうです。

 

1985年ドラフト1位で、日本ハムファイターズへ入団します。

 

翌年、ジュニアオールスターゲームでMVPを活躍するなど2軍での活躍は目立ちましたが、打撃が弱く、一軍定着には中々なりませんでした。

 

1989年 中日でも指揮した、近藤貞雄氏が監督に就任。献身的な姿勢を買われ、バント要員、守備固め、代走での出場試合数増加。

 

そして、1993年。大沢啓二監督が就任すると、闘志を買われキャプテンへ就任します。ショートのレギュラー選手として、1996年まで連続100試合以上出場します。

 

直接お伺いしたのですが、タカダプロ野球カードゲーム91、92年(恐らく撮影タイミングは同じ日)の写真で掛けている、「ゴーグル眼鏡」は、キャンプ期間中に試したもののハマらずこの時だけになってしまったそうです。レア写真ですねw

 

元々鉄壁な守備が買われて、1軍定着した広瀬さん。1993年、94年にはショートとして、ゴールデングラブ賞を獲得しました。

 

1995年には、田中幸雄選手のショート挑戦に伴い、広瀬さんはサードへコンバート。この年、パ・リーグ東西対抗戦でマウンドに上がったオリックスのイチロー選手に、あっさりピッチャーゴロに打ち取られたのも好珍プレーでピックアップされてましたw

 

1997年 巨人から移籍してきた、落合博満選手の加入により、ファーストを守っていた片岡篤史選手がサードへ。広瀬さんは出場試合数を減らします。

 

1998年は、ケガのため戦線離脱。「納得がいくプレーができなくなった」ことを理由に現役を引退。

 

引退と同時に、タレントとして活動。日本ハムのシャウエッセンのCMにも出演していましたw

 

現在は、野球教室など指導者として活動されています。プロ野球界での活躍も見てみたい方です!

黄金西武の時代を支えた、右殺しといえば・・・

 

西武近鉄 安部 理 さん です。

 

安部さんは、ダルビッシュ有選手など多くのプロ野球選手を輩出している、東北高校出身。在学時にはファーストとして、4度の甲子園出場を果たします。

 

1980年ドラフト4位で西武ライオンズへ入団。1983年のアメリカマイナーリーグへの野球留学を秋山幸二選手らと共に経験します。

 

1984年17試合、85年は23試合と徐々に試合数が増えていくものの、86年は一転して1軍試合出場数がゼロに終わります。

 

その要因を与えたのが、この年同ポジション、打撃が強い

 

清原 和博 選手が入団したからでした。

 

「打率.304、31本塁打で新人王。バケモノですよ。バッティングを見て、かなわないと思いましたから。キヨのおかげで踏ん切りがついた。あれがターニングポイントでした」

 

と、安部さんは語っています。その後、外野手へ転向。

 

そして、1987年 VS南海ホークス戦で、プロ初本塁打を満塁アーチで飾りました。その年は83試合に出場。

 

その後、チャンス強いバッティングでチームに貢献。レフトの準レギュラー、代打として、西武黄金時代を支えました。

 

そして、1996年。チームの若返りを理由に戦力外通告を受けます。そこで引退をすることなく・・・

 

テスト入団で、大阪近鉄バファローズへ入団。家族を関東に残し、藤井寺球場近くの寮で単身赴任。

 

1997年に、81試合に出場。本塁打2本、二塁打11本、打率3割越えと復活を遂げました!

 

近鉄では、主に代打と本来のポジションであるファーストとして活躍しました。

 

そして、同ポジションで、後に優勝にも貢献する、巨人から移籍してきた、吉岡 雄二選手の台頭もあり、1999年に現役引退を決意。

 

9月に行われた、古巣西武ライオンズとの公式戦で引退試合。

 

今では見慣れた光景ではありますが、試合終了後に、両チームの選手が安部さんの胴上げに参加しました。

 

現役生活18年の別れを告げ、2000年には、台湾プロ野球チームの中信ホエールズとしてコーチ。

 

その後は解説者として活躍します。

 

楽天→西武→高陽(韓国)→ハンファ(韓国)のコーチ業を経験し、

 

2017年 創価大学や東京国際大学など強豪大学野球部が所属している、東京新大学野球連盟に所属している高千穂大学野球部の監督に就任しました。

 

これからも指導者としての活躍に期待です!

アジア球界を渡り歩く、挑戦し続ける指導者 この方をご紹介。

 

中日 芹澤 裕二 さん です。

 

芹澤さんは、埼玉県出身。大宮東高校時代は、高校通算本塁打15本を記録。

 

1986年に、ドラフト外で中日ドラゴンズへ入団します。が、、、、

 

芹澤選手は、ここから10年間、1軍の公式戦に出場することなく、1996年に引退します。

 

芹澤さんのプロ野球人生で重要な出会いは、

 

入団した1987年、そして引退時、その後にも縁がある、星野仙一さんです。

 

チームへの献身的な姿勢や、サポート力が評価され、引退後の1997年、ドラゴンズの2軍バッテリーコーチへ就任。

 

翌、1998年には1軍バッテリーコーチへ就任し、星野監督を支えます。1999年にはリーグ優勝へ貢献しました。

 

その後も、山田久志監督政権でもコーチとして支え、2004年にはブルペン捕手へ。

 

そして、2005年

プロ野球に新規参入した、東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍バッテリーコーチに就任します。

 

芹澤さんのBBMカード化はこのコーチのカードが初めて。チームセットにはコーチもカード発行されていました。

 

2009年まで務めあげたあと、2010年から韓国プロ野球SKワイバーンズの1軍バッテリーコーチへ就任。入団一年目からリーグ優勝に貢献しました。その後、SKからサムスンライオンズへ移籍し、2014年までに、4度優勝に貢献しました。

 

そして、2015年に日本球界へ復帰。ヤクルトスワローズの二軍バッテリーコーチとして2016年まで活躍。

 

2017年は、2度目の韓国球界へ。サムスンライオンズのコーチになります。

 

そして、楽天球団の副会長を務めていた、星野仙一さんからの要請で、2018年は寮長とテクニカルアドバイザー職に。しかし!それを1年で退任します。

 

芹澤さんは、2019年に3度目の韓国球界へ。2度目の韓国球界の時にに支えた、リュ・ジュンイル監督が務める、LGツインズのバッテリーコーチへ。

 

恩師である星野副会長から賜った、楽天での仕事を辞退し、コーチとしての仕事を選んだ芹沢さん。

 

悩んだ末の結論で、結論を下した、言葉は・・・・

 

「迷った時には、止まるな。迷ったら、ゴー」

 

2018年1月に亡くなった、星野仙一監督の教えでした。

 

これからも、星野氏譲りの愛情と指導力で、球界に貢献する芹澤さんの活躍に注目です!!!

転機をものにし、活躍した左腕をご紹介。

西武中日ダイエー 杉本 正 さんです。

 

静岡県出身で、1977年夏の甲子園予選では3回戦でノーヒットノーランを成し遂げます。その後、大昭和製紙へ入社。

 

1980年には、後にチームメイトとなる大石友好捕手と共に、都市対抗野球大会にて優勝します。その年のドラフト会議で3位で西武ライオンズへ入団します。

 

入団1年目 VS日本ハムで、初登板初完封勝利を飾ると、そのまま先発ローテーションの一角として定着。36試合に登板し、7勝を挙げました。

 

その後も安定的に勝ち星を積み重ね、1983年には初の二桁勝利を達成。

 

そして、1985年のキャンプ前、、、

 

 

スター選手として活躍していた、田尾安志選手との交換トレードで、共に社会人野球でもバッテリーを組んできた、大石友好選手と共に、中日ドラゴンズへ移籍します。

 

「なんとか2ケタ勝利を挙げたい。田尾さんより活躍したい」

 

ここが、杉本投手の転機となり、

 

移籍2年目の1986年には12勝を挙げ、2度目の2桁勝利。翌年も星野政権となったチームの開幕投手を務め、13勝。

 

1988年の優勝時にも6勝と、コンスタントに活躍しました。

 

そして、1990年

 

星野仙一監督の盟友である、西武時代の先輩でもある田淵幸一が監督を務める、福岡ダイエーホークスへトレード。

 

1990年は年度途中から16試合に登板で3勝。1991年も15試合に登板し、3勝を挙げました。

 

1992年には29試合に登板し、中継ぎも何試合か務めましたが、1993年に初めての一軍登板なしのシーズンとなり、オフに引退。

 

トータルで、日本シリーズは5回登板したものの、0勝1敗。

 

その後、1995年にダイエーホークスの二軍コーチとして、プロ野球界に復帰し、そこから期間は空くものの、

 

西武→ダイエー、ソフトバンク→横浜→起亜(韓国)→楽天(スカウト)→西武→楽天と、2018年までコーチ業をメインに渡り歩きました。

 

2019年からは、野球評論家として活躍しています。