大洋→西武→横浜→中日 デニー友利さん | プロ野球カードとサイン

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アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

現在は熱血漢コーチ



大洋西武横浜中日 デニー友利さんです!


父親がアメリカ人、母親が日本人のハーフ。


日本名が「友利 結」で、アメリカ名が「ローレンス・フランクリン・デニー」。


現在は日本名登録ですが、愛称の「デニー友利」は、両方を掛け合わせた名前だったのですね。


沖縄の興南高校時代は現在、NPB審判員の名幸一明さんとバッテリーを組み、


1986年 ドラフト1位で、横浜大洋ホエールズに入団します。


1年目に、初登板・初先発を任せられるものの中々結果は出ず・・・。


コントロールの悪さを指摘され、サイドスローに転向。入団9年目の1995年に初勝利!



1997年 東尾修 監督と、本人の志願で、長見賢司 投手とのトレードで、西武ライオンズへ移籍します。


入団先には、サイドスローの潮崎哲也の助言


そして監督の東尾さんに


「コントロールに自信なんてないだろ。全力で腕を振って投げろ。バッターが怖がるから」


と流石はケンカ投法のアドバイスを貰いw 徐々に才能開花!


1998年~2001年まで平均して中継ぎ50試合を登板します。


2002年には選手会長を務めるものの、登板の機会に恵まれず、そのオフ



前田和之 投手との交換トレードで、古巣・横浜ベイスターズに復帰。


ストッパー候補として期待されるものの、中々成績を残せず・・・。


2004年オフに、メジャー入りを前提とした自由契約となります。


その後、アメリカで自らトライアウトを企画し、2005年にボストン・レッドソックスにマイナー契約で入団しました。


すごい行動力!!


しかし、メジャー昇格はならず・・・。


2006年は、



中日ドラゴンズへ入団します。


落合監督に獲得を進言した森 繁和バッテリーチーフコーチ(現監督)から


「野手でいえば川相のように、若い選手に取り組む姿勢を見せてやってほしい。」


と言われ、奮起!!


中日中継ぎ陣を支える存在として、31試合に登板しました。


2007年は登板の機会はなく、戦力外通告に。そのまま現役を引退します。



引退後は、ボストン・レッドソックスで国際担当顧問兼巡回コーチ(2008年)


2012年、2013年は横浜DeNAベイスターズ、2014年から中日ドラゴンズで投手コーチをされています。


投手の交代時やピンチを招いた時にマウンドへ行き、


投手の胸を軽く叩く、「闘魂注入」を行う事がよくあります(中日になってからあまり観ないか??)