ヤクルト→日本ハム 小川 淳司さん | プロ野球カードとサイン

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80年代〜90年代のOB選手を中心です。

メークミルミルの演出者 といえば・・・。




ヤクルト日本ハム 小川 淳司 さん です!


2010年途中から、2014年までヤクルトスワローズの監督を務めた小川さん。


習志野高校時代はピッチャーで、中央大学進学を機に、外野手へ転向。


4年次の1979年秋 東都大学リーグを優勝し、全日本大学野球選手権大会で日本一に輝きます。


その後、河合楽器に進み、都市対抗野球にも出場。1981年 ドラフト4位でヤクルトスワローズへ入団します。


1984年 ライトのポジションを獲得し、レギュラーに。115試合に出場し、ホームラン11本を放ちます。


翌年も同等の活躍をするものの、1986年に怪我の影響で打撃不調に。


その後、外野手では荒井 幸雄選手、更には六大学のスラッガー広沢 克選手の入団もあり、徐々に出場機会を失います。


小川さんの性格は非常にまじめで、1軍監督だった関根 潤三さんも、「オマエら、小川を見習え。」と手本にしていたほど。


レギュラーから外れた後でも、守備固めの機会で、


「昨日はナイスプレーだったな。(守備が)上手いやつの追い方だ、あれは」


と監督だった野村 克也さんに、褒められるほどの忠実な選手でした。



1991年 49試合の出場に留まり、構想外に。


翌年

角光男 投手との交換トレードで、日本ハムファイターズへ移籍。


ここでも守備固めなどで活躍し、47試合に出場するものの、この年限りで引退をします。


1軍出場は通算11年。940試合に出場し、ホームラン66本と長打力が魅力な選手でした。



引退後は、古巣ヤクルトのスタッフになり、


1993年~1995年 スカウトで宮本 慎也選手、石井 弘寿投手の獲得へ尽力。


1996年~2007年 ヤクルトの2軍コーチ、監督として選手育成へ邁進します。



小川さんの指導への考え方は、親譲り。


犯罪者を更生させる保護司を務めていたお父さんの、


「犯罪者は出会いの失敗者なんだ」


という言葉を聞き、小川さんは、


「指導者となった自分が、選手にとって出会いの失敗になってはならない」


と考えるようになったそうです。


その考えの元、見守り続け、成功へ導いた選手が、



現在はヤクルトの代表するスラッガーとなった、畠山 和洋 選手でした。


2010年に、高田 繁監督の代行という形で、1軍監督に。


この年、ギリギリの所での快進撃を促し、3位でクライマックスシリーズへ進出。


2014年まで監督を務め、


現在はSD(シニアディレクター)として活躍させています。


「周りをやる気にさせることができる指導者」


それが小川 淳司さんです。