阪急・オリックス→横浜→阪神 伊藤 敦規さん | プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

阪急最後のドラ1のサイドスローといえば・・・



阪急オリックス → 横浜 → 阪神 伊藤 敦規 さんです!


中京高校から、家業の関係もあり、福井工業大学へ進学。全日本大学野球選手権に導くなど活躍。


ロサンゼルス五輪では、2勝挙げ金メダルに貢献しました。


そして、1987年 ドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。


1年目に、2軍でノーヒットノーランを達成。 そして、1軍でも20試合に登板し、プロ初勝利を挙げました。



1990年は、1軍のローテーションに加わり、7勝7敗。


当時は常勝軍団 西武ライオンズのキラーと言われました。


1992年には、監督推薦でオールスターゲームへ出場しました。


しかし、翌年から成績が奮わず、1993年、94年共に9試合に出場は留まります。


そして、1995年



1994年のオフ 飯塚 富司選手と共に、水尾 嘉孝・渡部 高史・堀江 賢治選手との2対3のトレードで、横浜ベイスターズに移籍します。


ベイスターズでも先発として出場。1995年は19試合に出場したものの、1勝2敗。


1996年は、4試合で0勝0敗。この年に、戦力外通告を受けました。


そして、伊藤さんは・・・


「幼い頃からファンだった阪神の入団テストを受けてダメだったら諦めもつく。」と、考え、受験。



フロントから99%無理だと言われたものの、無事合格し、阪神タイガースへ移籍しました。


タイガースでは、中継ぎとして活躍。


1997年から2001年まで、史上7人目となる5年連続の50試合以上登板を果たします。


同じくサイドハンドの遠山 奬志投手、軟投派サブマリンの葛西 稔投手らとともに、強力なリリーフ投手陣を構成しました。


2000年は、71試合に登板。伊藤さんはこの年、37歳。70試合以上登板した投手の中で最年長投手記録となりました。


2002年 腰痛もあり、登板が20試合に留まり。現役を引退。


2005年から、タイガースのコーチとして復帰し、現在も活躍しています。


トレーニングの重要性を伝えることができるのが怪我の体験だと思います。サブマリンの活躍に期待!