なんでもそうやけど、先生と呼ばれる人達は人を救っているようで
物凄い人から頼られて乗っかられて大変なのだ。
特に宗教なんて、詐欺のプロにならないのならば
精神病になって終わるだろう。
どちらかしかないだろうよ
私がよく精神病じゃないかとゆうろう
本当にこんな世界は精神病と隣合わせでね
もちろん社会に出て精神病になる人もおるさ
自殺したくなったり、うつ病になったり、仕事が忙しくて、人との輪に入れなくて、家庭が上手くいかなくて、兄弟や親が病気して、もしくは自分が病気して
人生って真っ直ぐじゃない。
一人に慣れたら人とおれず
人とおり慣れたら一人になれず
難しいところなのだ、自立とは。
先生になれば、周りの過度な期待、救ってくれとのしかかる人、乗っかってしまって自分で歩まない人
先生という立場は中途半端であると、負担が行くものだ。
まだ学校の先生なら給料をもらい、教師としての立場が確立されている。
家に帰った子供の生活まで面倒をみる必要はなく、学校が終われば開放される。
しかし寺はどうだろうか。
人を救うなどとゆうて手を出せば、救う必要のある人間は人にすがりたい人ばかり
先生とやらを餌にして自分のエゴを増大させて手を出さなければ被害者であらせたものを、自分を食わせて加害者にして、口では被害者の言葉を綴りだす
だから私は中途半端なものには用事はない。
本当に死に際にあって動けない者にしか呼ばれない。
努力をしても生きれない
先祖が守護をしても守れない人にだけ
私は連れていかれる。
まあ、あとは自分の行った罪の事に対しての責任については手を出すようにと。
さあ?
寺でもユーチューバーでも、有名になる事はいい事ばかりなのだろうか?
エグサエルのアツシは洗礼中か。
ライム病
17年前にキリストの教祖が家にきて本を私に読ませた時に、ライム病の事が書いてあった。
エグサエルをするなら機を待て
人生動けんようになることは運気の低下である。
その運気の低下はお前の厄年だ。
3年から3年半は立ち上がりにかかる。
お前たちは厄年が一律だと思っているだろう。
人間の厄年はそれぞれに長さも期間も違う。
低空飛行をしろ。
辞めるとか始めるという動きはするな。
お前は人生で、心底何かを集中して道筋を立てて考えた事はあるか?
悩み方というのがある。
人は有象無象に悩んで見せるが、正しい悩み方というものがある。それができるなら、病気でさえ早くに回復するだろう。
わたしはね
神と話しているというだろう
でもね、これはね、本当はわたしなの
本心はね、本能なのよ。
まあ、その意味がいつかわかる日まで。
人として見え神として霊視し、他人として会話しても、わたしから生まれたもの。
何億年もの間のはなしでもないがねえ
まあ、不思議なことではないということだ。