ゴールデンウイークで実家に帰ってきた。

実家に帰ると、まず本棚をチェックする。

自分の父親、母親が読んだ本は、自分の精神発達段階に応じて自分に”ヒット”する本があるからだ。しかも時間、引越しというフィルターがかけらられてなお生き残っている本は実に味わい深く、名著である確率が非常に高い。

(しかも絶版等で手に入らない+お金がかからないといった点で、貴重であり、いくつもお得)

今回ヒットしたのは

”茶と禅 伊藤 古鑑、1966年 春秋社”

”老子 1973年 中公文庫”

の2冊を読んだ。

”茶と禅”では

茶道の事


”およそ、茶道と言っても、その奥義に達するには10年、20年の修行を要することであろう。ただ飲むということでなしに、その術、その法、その道の3段階を経て、奥義に達することは容易な事ではない。

懐石料理も一通りは心得なくてはならない。”



「主一無適の心」

”一つのことに心を集中し、他のところには心を止めず、わき目も振らずに、一心になって余念を交えないことである。”


「純一無雑の三昧境」

”まず三昧境に入ることを第1の心得として、そこから深く禅味を悟り、また茶味も、本当に悟って、茶禅同一味の心境になり、茶道の和敬清寂の精神を会得して、わずか4畳半の茶室に座しながら、深山幽谷に在る思いをし、絶えず聞こえる釜の湯の煮える音―――その音を松風と聞きなして、こころを大自然の中に運び、小さなる「われ」が、大いなる「われ」に拡大されて、そこに天地一如の妙境をきりひらく、これが茶道の三昧法悦境であって、禅の境界と完全に一致するのも、ここの点をさしてゆう。”

以上簡単な書き抜きである。

”茶”と”禅”

いずれも日本文化を代表する思想体系で、いずれはぜひとも実感したいと思っている。

知識、思考がなければ味わうことができないし、それでいて”ありのまま”を感じることもできなければならないという世界。

いま、奥さんが習っているが(うらやましい限り、いつかは一緒に行きたい)、そのうち器作りとセットではじめたいと思っている。

「老子」

全体に枯れた感じ。

不思議と”茶と禅”で説いているスタンスと近似している。

”上善は水の如し。水は善く万物を利してしかも争わず、衆人の憎むところにおる。ゆえに道に近し。”

(最上の善とは水のようなものだ。水のよさは、あらゆる生物に恵を施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ所に満足していることにある。このことが水を「道」にあれほど近いものとしている)

”上善は水の如し”のフレーズは有名であるけれども、それが老子の一説とは知らなかった。

精神的な成長に必要なものは、かなり古くから非常に高いレベルまで研究されてきている気がする。

人間の生物学的欲求(食欲、性欲、睡眠欲)という点に関しては、科学技術が貢献できる分野は限りなく狭く、太古の人と現代人では、満足する可能性に関してはほとんど差がないのではないかと思う。

(たとえば、”すし”がもっとも今でも贅沢というのは、ある意味文明がより進化してもその味わいに進化がないという点で面白い。)

おそらく、100年後でも、すしは贅沢品であろうし、”寝る直前がもっとも幸せ”という人は多いのでしょう。

不思議な考察ですが。