早川書房創立80周年記念出版、小川哲デビュー10周年の記念企画である。そしてNHK放送100年特集のドラマにもなった。早川書房といえば、ミステリ、SFのジャンルが主で海外の作品も多く手掛けている。一時、海外ミステリにはまっていた私はお世話になった出版社だ。
小川哲の作品は初めてである。SFものも久しぶりで、記憶をたどると『七人のイブ』以来、途中まで面白かったが3巻目でつらくなった。これもハヤカワだ。本作はSFかつ群像劇のスタイル。私にとってSFは情景がイメージできるかどうかで好き嫌いが分かれる。本作は豊かなイメージを与えてくれた。
イーロン・マスクを連想させる登場人物マディソンが、科学者のリキ・カワナベに「恥をかくことが、どうしてデメリットなのか分からない・・・中略・・・馬鹿にしてくるやつは、馬鹿にさせておけばいい。そんなやつは最初からどうでもいい」というシーンは特に好きだ。現代小説なら陳腐で拒否感を抱くかもしれない場面だが、SFだと素直に受け入れることができる。SFの不思議な力だ。日本人(特に富山県民)は調子に乗っている人を嫌う傾向がある。調子に乗ると足元がすくわれやすいことに対する戒めと、調子に乗ったまま大成功する人へのやっかみが同居しているのだと思う。火星にいるという設定であれば、「恥をかく」ということに対する嫌悪感を共有しつつ、実はどうでもいいことなのかもしれないと腑に落ちる。その距離感が、視点を変えてくれるのだ。
事件が多発し混乱を極めていく中、マルが「一度にいろいろな問題が起こるときは、たいてい背後に一つの大きな原因があるんです」という最近誰かから聞いた話を思い出すシーンがある。物語の水面下でおおきなうねりとなっている根本的事象。リアルな世界では、なかなか掴みにくいが、実はそれを突き止めたいという欲求が人間にあることを改めて思う。原因と結果の関係性を紐解きたい欲求は人間の特質である。
そんなことを考えながら読み進めていくと、科学的論文の補論として文化的エントロピーの理論応用の話に出会い興味をそそられた。「あらゆる文化はエントロピー増大を防ぐことはできない。増大するエントロピーは、水に落ちたインクが均一に溶けだすように文化の均一化を招く」生物における均一化=平衡状態は死という主旨だ。重要な要素である言語を例にとっても、世界中の言語の種類は急激に減っている。しかし、近い将来日本語、中国語、英語、フランス語・・・が無くなることは起きないだろう。文化的エントロピー増大に対抗する力はアイデンティティなのかもしれない。アイデンティティと自由は人間が生きるために最重要な要素であり、個人的でありながら共同で確保しなければならない側面を持つ。火星と地球という設定から生まれる対比によって、そのことが一段と明白になることが面白い。
マディソンの真の意図は何なのか。アイデンティティを探す自由な旅は、精神的なものだけでは満たされず、物理的なものに向かうのかもしれない。マディソンは次の星に向かって旅立つ。経済効率や合理性を超え、本能的に人間が欲するもの、アイデンティティ、精神の自由、行動による達成、SFの世界観を用いて、リアルでは考えにくい本質を捉えなおす。小川哲の作品の魅力だ。
