やりたいことというのはその気持ちだとか欲求だとかは勢いや流れであるともいえます。

これやあれはやりたいことだ

と認識してる時点でもうその勢いは流れはじめているわけなのです。


ということは、やりたいことをやらないできない

ようなふうにしてしまえば、流れをせきとめたり、つまらせたり、滞らせたりしていることと同じようなことになるのであります。


人はまず身体として循環があり、その循環が滞れば、様々な症状が生じうるかもしれません。

くわえて、心身一如というように心や精神などといったところも一体なわけですから、

さきほどのやりたいこと

というのをやらないということは


身体的な症状にまでつながりうるのであります。

やりたいことをやらないを積み重ねていると、チリツモに滞りやすくつまりやすくなり、症状の度合いによっては、やりたいことを物理的にやりにくくなってしまうこともあるかもしれません。


ですので、やりたいことをやっていくのは大事なのであります。

とはいえ、我々はこの世のなかで生きているわけですから、なんでもありとはいえなんでもありでもないところはあります。

たとえば、お金というのはやはり必要になるところでは必要になってくるという設定があるなかで生活しているのが現実的なところであり、お金を無視してもよいのですが、それでやりたいことをやれないかもしれないし、そんなお金でやりたいことなんて自分はやらないなんて言っていても、もし実はやりたいけれどそういった思想の中でおさえているのであれば、最初に述べていたように、それは勢いが流れはじめているのにそれをおさてているのと変わりないのであります。

社会的に罰則をうけるようなやり方をすれば、それはもちろん罰則をうける可能性があるわけで、そうしましたらその後は余計に自由は効かなくなってしまうというのは想像に難くないのであります。


この

現実

に生きているのですから、やはり現実的な視点は効果的なのです。


よって、やりたいことをこの世に合わせつつ上手いことやっていくというのが現実的なのかもしれないとおもうものであります。

やり方というのはけっこういろいろあるもので、あるやり方では無理なことも工夫したり発送転換したりと別のやり方をしてみると上手いことやることができることもおおいのであります。


無理はやはり無理なわけでして、というか無理のルートはもう道が続いていない場合がおおいのであります。


また、やりたいことを無意識にもセーブしてしまうのうな現代の傾向はあるとおもわれ、そこを知覚、自覚するというのも現代的な視点では有用かもしれません。自分の感覚をみる。


と、いろいろ述べていくことができるわけなのですが、そんな論理などは実際のところどうでもよいといえ、やりたいこと、そんな感覚に素直であることがまずは肝心な気がしています。

そのうえで、この社会においてこの自然においてこの世において生きているなか、自分はどう在り、どうしてみるかを選ぶという感じでよさげなのであります。