自然、この世には流れがあります。
循環しているわけで、めぐっているわけで
そこに流れがあります。
大きくみれば、それはひとつの流れでありますが、
それらをこの世的に解釈していくことで、カテゴリごとというか、それぞれの流れもできでくるようであります。
解釈次第なところはあり、それはそうということにすればそうともとれることはたくさんあり、それはあらゆることがそうかもしれないのですます。
たとえば、やりたいこと
という流れ。
やりたいことができる、やりたいと感じる、
そういうとき、それはやりたいことという流れが自分に流れてきたともいえるのではないか。という解釈であります。
ふと、やりたいことが思いつくこともあれば、いろいろな経緯、経験からやりたいことができてくるということもあろうかとおもいます。
このやりたい、やってみたい
という流れ。
これも流れでありますため、そこを滞らせてしまうか否かというのは、この世で生きるうえで、流れにのるか?逆らうのか?というところに通ずる可能性があるのであります。
川などを泳いだときを考えてみれば、わかりやすいですが、当然、流れにのったほうがスムーズであり、逆らえばそれなりにしんどさを伴うのであひます。
その流れの仕組みと、人がそれに対してどうあるかということでの感じ方の違い。があります。それが仕組みとしてあるなかで。
その流れのひとつ。
やりたいこと。
やりたいことのなかで、たとえば
食べたい。をあげてみましょう。
あれを食べたい、これも食べてみたい。
それはあるかと。
けれども、食というものを自然的に考えていくと、いわゆる健康や人体のバランスにとっては、積極的に推奨はしにくい食べ物もあるわけです。
ですので、それを整理整頓していくのは、やはり人体にとって、健康などというのを考慮するならば、効果的なのです。
けれど、そこで、我慢という感覚があるかどうか。食べたい(やりたいこと)という流れに抗うのか?それとも、その流れ自体が変わって食も変えていくのか。
食べたいのに我慢して、他のよりよいとされる物を食べるのか。
そもそもそれを特に食べたいという流れも来ていないし、人体にとって自然な食べ方があるなら、それを食べてみるのか。
というところでは、同じように食べ物を変えていくのでも、そこに生じている流れが違うのであります。
これの前者の状態は、人体には自然的で、バランスを整える効果が得られたとしても、既に生じてしまっている流れに対して逆らっているという状態です。
なんだかプラマイゼロとなる可能性も考えられ、場合によっては(本人の受け取り方など?によっては)余計にマイナスに方向づいてしまう可能性もあるかと。
この世において、既に生じてしまっているものはもう生じてしまっているのであります。
流れも生じているならば生じているので、
流れをなかったことにしようとしても(自分の本音と向き合わないようにしても)、それはもうあるので、それに逆らうことになります。
というような、流れがあることと、そこに対して自分はどうあるのかというところが関わってきそうなのが現実なところなのだと思われます。
その流れのひとつ。やりたいことということでした。
やりたいことをちゃんとやれているのか?
やりたいことを無視していないか?その流れは既に生じているのではないか?
やりたいことは表面的につくられたものなのか?それは深いところの本心なのか?(たぶん、気の所為のやりたいこともありますが、そこらへんも失敗して身に染みてというところなのでしょう)