重力がある環境において、
歩く動作とは、不安定の連続であるといえる。

あえて不安定になることで、重心を動かし、移動する動作とみれる。
一歩踏み出すというのは不安定になることなので、その連続が歩く動作。不安定の連続。

理学療法士は歩きを含む人の基本的な動作の専門家でもあるのでこんなことも考えるのである。

人体には、バランス感覚や神経、皮膚感覚、筋力、など、不安定を修正する能力が備わっていて、それを持って不安定の連続である歩行をやっている。

安定するには、立ち止まったり、座り寝たりすれば重心的には安定する。
重心が安定したままだと動けない。
寝返りとかは安定して動いてるんじゃないかという見方もできるけれど、重心的には一度安定を崩すことで動いている。ただ、寝返ることで主な移動としている人は少ない。そもそも移動としては実用的でないということでもあるのだろう。

で、これもやっぱ、ふらくたるで。

精神的にも社会的にも動くというのは、一度不安定になる不安定を経過すると思う。

なるべく安定したまま動くこともたしかに可能ではあろうがそれは実用的なのかどうか。
不安定を修正する能力が低下したお年寄りが縮めた歩幅でなるべく安定しながらちょこちょこゆっくり移動することもあると思うが、これでは信号を渡りきれなかったりもするのである。信号が渡りきれないとなれば、外での実用性には欠ける歩行ということになろう。

部屋の整理や掃除もそのままやるより、一度外に出したり、一旦は散らかして汚したりした方がやりやすかったり効率的にできたりもするものである。言葉として不安定というわけではないが、動くための安定の維持と不安定という関係性からみれば、よりきれいにするための中途半端なきれいの維持と散らかすという関係性も似ていると思う。
同じく何かしらを発展、進化させていくために、一度固定観念をぶっ壊すというのも似ていると思う。

んで、一度不安定になったり、壊したりできるのってそこを修正する自信はあるからでもあって?



精神的にも社会的にも進化や変化をおこしていくためには、現状維持の防御力だけでなく、不安定を修正する能力があればということになって。


防御力を鍛えるのもよいけれど、修正する能力も鍛えたいと思うものである。