今日は感じるところがあり
自分の忘備のために
思索のために文章を書きます
整理された文章にならないかと思いますが
読んでくださる方には感謝です
ご指摘やご指導など
山ほどあるかと思いますが
どうぞよろしくお願いします
この一年ほど
著作権についてネットで調べたり
弁護士さんから関連書類をもらって読んだり
アドバイスをもらったりしました
著作権は
タティングレースをやっていく中で
考えなければならない壁です
タティングレースをやる、、、
と一口でいっても
個人的な楽しみの範囲でする中では
著作権に触れることはまずないですが
たとえば
作ったものを売ったり
またネット等で発信したりする場合には
個人のテリトリーを出て
社会とつながるため
ルールを尊守することが求められます
先日
FBで著作権侵害の摘発の記事を見つけました
ある作家さんの本の作品を
ほぼ完全模倣したものを
ネット販売している人がいたのですが
これは紛れもなくNGですね
手芸の著作権については
美術芸術建築などとは違って曖昧で
線引きの難しいところがあるとは思います
実際
弁護士の先生も
手芸関連の著作権について
判例は見当たらなかったそうです
(ひとつには、そこで動く金額が
比較的小さいということもあると思います)
著作権と一口でいっても
専門的に解釈をすすめようとすると
相当複雑にさまざな権利と解釈が
その中に含まれてくるようです
私限られた知識と理解だと
例えば先ほどのFBの複製品販売については
実際にはその著作権を有する方から
被害届があって初めて問題として成立する
親和権というのがあるそうです
ですので
前出のケースの
本の著者が複製販売を見つけて
相手に通告するなど
アクションがあってようやく
著作権が守られるということでしょうか
★
タティングレースのように
ベースとなるものがチェインとリングという
ごく限られた構成で作られているものは
特に難しいところがあるかと思います
基本的には誰もが
それらの基本的なパターンを
真似して練習していくので
本の作品すべてが
独自性が高いわけではありません
世界各地で
同じような初歩的なパターンも見かけます
それら初歩的なパターンや作品は
ともかくとして
本を作るには
パターンや構成など
相当な労力がそこに注ぎ込まれます
そのように
オリジナリティが付加された作品について
本の情報の受け手である側が
敬意を払って扱う必要があると思います
私達は皆
真似ることからスタートして
それを反復することを繰り返す中から
ようやく
独自性なる引き出しが
養われていくわけです
ですから
真似られる方も
もともとは真似ていた訳ですし
そう考えると
真似られる方も真似る方も
同じく手芸文化の恩恵にうける身として
互いを尊重し合う
感謝の心が大切だと思います
★
著作権は
作者の死後50年でその権利は消失し
パブリックドメインとなります
ディズニー映画なども
すでにパブリックドメイン化して
安価で大量に出回り
沢山の人が気軽に自由に楽しめます
ものづくりの世界では
古典の世界を
現代に再現して発表しよう
というような活動もあります
建築などの世界でも宮大工さんのように
古い技術のすいをひもとき
そこから学び継承する
という作業があると思いますが
それらも
言って見れば真似ぶこと
(まねぶこと→まなぶこと→学ぶこと)
に他ならないと思います
生まれた赤ちゃんが
そうして成長していくように
皆真似ることでスタートします
また
どれほど歳月が経過しても
色あせない魅力と
輝きを持った技術のすいは
世界にあふれていて
それらを心ざし
まずは真似るのだと思います
音楽でいえば
ベートーベンやショパンでしょうか、、、
それを
真似る、が転じて、真似ぶ
まねぶ、が、「学ぶ」の語源
と言われるゆえんなのでしょう
★
では
真似る(ぶ)ことと
盗むことの違いはどこでしょう
それは根底に
感謝や敬意があるかないか
によるのではないかと思います
ネットで本の模倣品を作って売る
といった行為にはそれがありません
まるで
自分がたった一人で
生み出した作品かのように
「真似ぶ」ことをさせてくれた
「相手(先達)」に対する敬意が
ないのです
敬意があれば
必然的に
それを発表するときには
パターンや作品の出どころを記載して
真似ばせてくれた
「相手」を尊敬
尊重するという気持ちが現れた
アクションになりますよね
私も初期の頃は
そのようなネットにおける画像の扱いや
やり方について
全くの無知でありました
(今だに不得手)
その反省もここに込めています
では
失敗があったからもうダメか、、?
というと
そんなこともないと思います
やはり無知の恥は認め
誤りは誤りとして認め
次の意識のステージへ
進めば良いと思います
自身が直接的に
「先達(先生)から学ぶ」機会を得て
それが紙面の上の
(画面の上の)温度のないものではなく
実際に温度のある
生身の感情のやり取りをして
改めて実感することです
ネット社会では当然希薄になる
それらの「生身の温度感」や
感情的な「熱」は
ある意味で
想像力の欠如ももたらすかもしれません。
実際に
自分自身にも
そんな気付きのあるときがあります
「パッション」を伝えることは
ネットでの限界もあるのかもしれません
いつの世でも
「関わりを持つ」ことで
それぞれの主体がくっきりと
存在感を増すのだと感じます
その意識を
自分自身少しでも高めていけたらなぁ
と思う今日この頃です。
お読みいただきありがとうございました。
お口直しに
写メは通りのあじさいなのですが
園芸の先生に
あじさいの中でも
「アナベル」は
咲き始めの青さから
枯れて茶色くなるまで
長く色の変化を楽しむことができる
と教えていただきました
確かに通りのあじさいは
(これはアナベルではありませんけれど)
絶妙なおもむきがあり
美しいなぁと感じました

