1995年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大地震の際、自らも被災しながら、被災者の支援に奔走した精神科医による手記です。
ボランティアの調整、当時はまだ一般的でなかった被災者の心のケアなど、手探りでできることを行っていく過程がリアルに語られます。
震災直後に必要なのは、食べるものや寝る場所の確保といった実際的なことです。また、病院も倒壊している中、多数のけが人を救助することは最優先されたことでしょう。
しかし、震災前に何らかの精神疾患を持っていた人にとっては、行きつけの病院に行けない、薬がなくなるなど、一層不安な状況でした。
震災のどさくさで一時的に元気になったうつ病の人、高齢者が多い避難所で動けないことが理解されず苦しんだ人など、報道からは知ることができなかった精神医療の現場をかいま見ることができました。
私はなにもわかっていなかった。
これは、筆者の安医師自身の言葉です。
自分が災害を経験するまで、被災者はなぜ別の場所に移動しないのだろうと不思議だったと言います。
私も同じように感じていました。
もちろん、被災後、別の場所に移った人はいるにはいたそうです。
ところが、移動先では、被災地とまったく状況が違い、人々は普通の生活を送っています。
被災の苦しみを周囲の人と共有できず、移動した人のほうが精神的なダメージを回復するのに時間がかかったというのは、言われてみればなるほどと思うことでした。
文庫版の解説によると、安医師は2000年12月に39歳の若さで亡くなります。
肝細胞癌でした。
激務が原因の一つだったに違いないと、医師にこの手記の執筆を依頼した河村直哉さんは悔やみます。
心の傷や心のケアという言葉がひとり歩きして、被災者の苦しみ=カウンセリングという短絡的な図式が見られることを懸念していた筆者は、医療の限界を感じ、人とのつながりが人の心を癒すのに重要だということを知っていた医師でもありました。
苦しみを癒すことよりも、それを理解することよりも前に、苦しみがそこにあるということに我々は気づかなくてはならない。だが、この問いには声がない。それは発する場を持たない。それは隣人としてその人のかたわらにたたずんだとき、はじめて感じられるものなのだ。
上の言葉は、河村直哉さんが文庫版の解説の中で著者の言葉として引用しているものです。
河村さんは言います。
安医師が大震災のさなかに模索し、戸惑いながらつかみ取っていった心の傷を癒すということへのまなざしは、今も遠い地で起こり、今後も起こるだろうあらゆる悲劇の渦中にある人にも向けられている。稀有な仕事だった。この仕事に関わることができたことを僕は生涯の誇りとする。