作者の礫川さんは、近代史、宗教社会学などを研究し、『独学で歴史家になる方法』などの著書がある、在野史家です。
読者として想定されているのは、『独学で歴史家になる方法』の読者、つまり、自分の研究を発表しようとしている「歴史独学者」です。
さらには、他の方面の独学者、ブロガーやコラムニストまで、「文章」にかかわる人に読んでもらえるように工夫しているそうです。
「講習」で構成され、全部で28講、それぞれのテーマにトピックとなるような「文章」が紹介されます。
著者が本書を通して訴えたいことは3つ
①日本語の「書き言葉」は、不自由で扱いにくいものとなっている
例えば、「である体」「ですます体」の問題
②不自由で扱いにくい「日本語の書き言葉」を使いこなすためには、わたしたちが読み書きしている「文章」「文体」は、いつごろ、どのようにして成立したか振り返る必要がある
③どういう文章が「良い文章」なのか、判断できる力が求められる
著者のいう「良い文章」とは「簡潔で、わかりやすく、思わず音読したくなるような文章、ノートに書き写してみたくなるような文章」です。
これを「名文」と言い換えて、いくつかの文章を紹介してくれます。
音読に耐える文章を書こう
ここで紹介されるのは、尾股惣司著鳶職のうた (1974年)
著者の尾股惣司さんは、東京・八王子のとび職で、およそ「文章」には縁のない生活を送ってきました。歴史家の橋本義夫が始めた「ふだん記運動」に出会い、はじめて原稿用紙に手を出されたということです。
これを、柳谷小三治さんが大変気に入り、繰り返し朗読されていたそうです。
紹介されている「にぎりめし」というエッセイは、さっぱりとした気持ちのよい文章です。
文章の材料はどこにでもある
2か月間も病気で寝どおしだった萩原朔太郎の文章から、「天井裏にいる一匹の蠅」からも、文章が生まれるということが紹介されます。
個人的には、書くことがないなら書かなくてもいいと思うのですが、ネタは自分の周りに転がっているということなんでしょうね。
観察眼が必要です。
明確なメッセージを発しよう
ここでは伊丹万作の戦争責任者の問題という短い文章が紹介されます。
初出は『映画春秋』創刊号(1946年8月)
全体を読むとわかるのですが、伊丹万作はある団体に名前を貸してほしいと言われて応じたところ、それを意にそわない形で使われたらしいのです。そこで、自分はその団体とは関係がないということをはっきりさせるためにこの文章を書いたようです。自分の意見を言いながらも、角が立たないようなうまい言いまわしです。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだいない。ここらあたりから、もうぽつぽつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思っているようであるが、それがじつは錯覚らしいのである。
たとえば、もっとも手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩もでられないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。
本旨とはちょっとずれますが、マスクがどうこう言っている今とあまり変わらないなと思って、興味深く読みました。
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というわけで、たくさんの名文が紹介されるのですが、この本を読んで文章がうまくなるというよりは、名文を楽しめるという感じです。(言われてることをまじめにやればうまくなるかも)
ところどころに《文章術の名言》も挿入されます。
私は、自分の小説の勝手が分からないので、同じ社にいる文学好きの若い同僚を外に誘い出しては、電灯会社の電柱置場に腰を下ろし、進行した文章を朗読して聞かせた。
松本清張
お読みいただきありがとうございます。