純粋なラテン語ができることが素晴らしいというよりは、できないことがみっともないのである。

 

古代ローマの政治家・キケロは、そう言ったとか……

 

ユビキタス、ビジョン、アウディ、アクア、ステラなど、いずれもラテン語またはラテン語由来の言葉なんだそうですね。

 

 

本書は、2010年から2016年にかけて行われた、ソウル・西江(ソガン)大学「初級・中級ラテン語」の授業内容をまとめたものです。

 

講師は韓国人初、東アジア初のロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士、ハン・ドンイルささん。

 

大人気を博したドンイルさんのラテン語講義には、他校の学生や教授、一般人まで聴講に訪れ、講座をまとめた本書は、韓国で35万部以上売れたベストセラーになりました。

 

 

「ラテン語の授業」の本がベストセラーだって?

 

大丈夫です。

 

難しい文法の話はそんなに出てきません(笑)

 

 

最初の授業は休講します

ドンイルさんの授業の目指すところは、「自分に必要となる知識がどこにあるかを知り、それを活用できるようにきちんと仕訳けて整理整頓するための、頭の中の棚を作る作業」

 

初日の講義は、オリエンテーションと中間考査の課題を出すことで終了。

 

わずか20分です。

 

学生たちは「うわさどおりの名講義だ!」と、教室を飛び出していきますが、実は、ドンイルさんが課題として出すのは、自分を見つめること。

 

勉強するということ、生きていくということは、私たちの心の中の陽炎を見ることです。

 

 

すべての動物は性交後にゆううつになる

ドンイルさんがローマに留学して間もないころ、法医学授業の時間に教わった名句です。

 

超満員の講義室がどっと笑いに包まれたそのとき、ドンイルさんは同じタイミングで笑えなかったそうです。

 

話されているのがラテン語なのかイタリア語なのかも区別できず、聞き取れなかったのです。

 

上の名句は、ギリシャ出身の医師・クラウディウス・ガレヌスが語ったもので、その意図するところは、「大きく期待した瞬間が過ぎ去った後に、人は、自分の力ではどうにもできないもっと大きな何かを逃したような虚しさを感じるものだ」というものです。

 

ドンイルさんは、「必死に駆け抜けた後に感じるゆううつや虚しさのような感情は、決して否定的なものだけではありません」といいます。「そこで私たちは、また別の自分に出会うことができるから」だとも。

 

ちなみに韓国でドンイルさんがこの言葉を口にすると、学生たちは多少恥ずかしそうに目をそらすのだそうです。

 

 

イタリアの学生と反応が違いますね。

 

 

 

こんなふうに、ラテン語の名句とその意味、それについてドンイルさんが学生に伝えたいことが話されます。

 

留学中、韓国人として、ひどい差別に遭ったりもしたドンイルさんの言葉は、温かく、学ぶことに対する応援で満ちています。

 

 

私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ

 

愛しなさい、そしてあなたが望むことを行いなさい

 

命ある限り、希望はある

 

 

紹介されるラテン語の名句はみな興味深く、ドンイルさんの優しい言葉に心が軽くなります。

 
 

2022年9月27日

ダイヤモンド社

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。