哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう
スピノザ
オランダ・アムステルダムで生まれ、1677年没。
ある古伝の「44年2か月と27日の生涯」という記述から、生年は1632年と推測される。
父母はポルトガルから迫害を逃れてきたユダヤ人で、父の死後、ユダヤ人居住地区で貿易商を営んでいたが、24歳でユダヤ人共同体を破門。
『神学・政治論』は1670年、発禁を恐れ、匿名で、架空の出版社から発行されたが、数年後、禁書処分となる。
後に完成した『エチカ』は、当局の監視が厳しく発行を断念、スピノザの死後、友人たちによって『遺稿集』が刊行されるが、それも禁書となった。
スピノザが命を賭して、発行した『神学・政治論』は、今読めば、なんということのない聖書の解説書にも思えます。
聖書の「預言」について、「預言者」について、「奇跡」について、聖書を実際に書いたのは誰だったのか、使徒たちは預言者だったのか・・・
・預言者は自分のイメージで語ったんだよ。だって、農夫のアモスとイザヤじゃ、全然語り口が違うでしょ。
・エレミヤなんて、いろんな話の寄せ集め。22章から37章まで全然違う話がバラッバラに入ってるの。でね、38章でしれっと元に戻ってる。ああ、エゼキエルもそうね。
・使徒たちは、自分の考えで教えたんだよ。だって、「ユダヤ人にはユダヤ人に対するように、異邦人には異邦人に対するように」って書いてあるよ。パウロとヤコブなんて考え方も違うでしょ。(※スピノザも吉田さんもこんな砕けた言い方はしてません)
こんな具合なので、当時のキリスト教会からしたら、とんでもない主張だったに違いありません。
とはいえ、スピノザは神を否定しているわけでも、聖書の神聖さをおとしめているわけでもありません。
むしろ、宗教の名を借り、民衆を心服させようと気を引くことしか語らず、内輪もめに明け暮れている教会の現状を鑑みるに、「改めて聖書を、偏見に侵されない自由な気持ちで味わってみよう」という気持ちから、本書を書くに至ったようです。
スピノザの『神学・政治論』は、畠中尚志さんの訳で岩波文庫からも刊行されています。
1944年、戦争の真っ最中に、「社会に平和をもたらすかどうかで宗教というものの価値を量り、思想と言論の自由を高らかにうたいあげるという、当時の社会体制を全否定するような主張により成り立っている」この本を出版するには、関係者たちの並々ならぬ苦労があっただろうと、訳者の吉田さんは言います。
なら、今の時代は、思想と言論の自由がかつてなく保障されているのでしょうか。
わたしはそうでもないような気もするのです。
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