翻訳家で、図書館司書でもある向井さんは、30年近く、ある読書会に参加しています。
読書会にはさまざまなスタイルがあります。
・出勤前のビジネスパーソンが集まってビジネス書を読む「朝活」としての読書会
・管理人がいて、ネットで参加者を募集する読書会
・固定メンバーだけの小さな会
読書会の方法も、自分の好きな本を各自が持ち寄って紹介する形式や、全員が同じ本を読んでくる形式、読んでいない本について語る「未読会」なんていうのもあるそうです。
筆者が参加している会は全員が同じ本を読んでくるスタイル
30年の間に参加者は何人か入れ替わり、最初は2人だった翻訳家が少しずつ増えていき、今では10人のうち7人が翻訳家というレベルの高そうな読書会です。
この読書会で話し合われた内容のほかに、読書会潜入レポもあり、①翻訳ミステリー読書会、②猫町俱楽部、③中学生の読書クラブなどが紹介されます。
学校司書でもある筆者もまた、学校で読書会を運営しており、読書会成功の秘訣などのコラムもあります。
翻訳をとおして、本をていねいに「腑分けしながら読む」方法を知ったという筆者の深読み読書案内はすばらしいです。
向井さんの翻訳の師匠である東江一紀さんとの勉強会で教わった、翻訳心得も参考になりました。
①読者のストレスを少しでも減らすべし
一度ですんなり読める訳文にすべし
②目にも耳にも美しい文章を書くべし
「~ではないのである」
「ないのかあるのか」どっちかわかりにくい
「ない」と「ある」が近いのは「美しくない」
「あるのである」は問題外
③やまとことばを使うべし
「顕著な変化の理由を明確にする必要がある」→ 「なぜこれほど大きく変わったのか、はっきりさせなければならない」とするとぐんとわかりやすい
④代名詞はなるべく使わず訳すべし
⑤原文の語順どおりに訳すべし
翻訳というのは原文を細かく分析し、解釈していく作業である。だから、場合によっては原書の作者自身も気づかなかった矛盾や間違いにも気づいてしまう。(~中略~)小さな矛盾があっても、読者はまず気づかない。作者でさえ気づかない。しかし訳者は気づく。訳すからこそ気づくのだ。
筆者の向井さんが参加する前から35年続いているという読書会で、取り上げられた作品が紹介されています。
1987年
『チボー家の人々』1~3(山内義雄訳)
1988年
『チボー家の人々』4~10
1989年
『チボー家の人々』11~13
『ジャン・クリストフ』(新庄喜章訳)1~2
1999年
『ジャン・クリストフ』3~4
1991年
『海の沈黙・星の歩み』ヴェルコール
『狭き門』ジッド
『田園交響楽』ジッド
『クレーヴの奥方』ラファイエット夫人
『夜間飛行』サン=デグジュペリ
『人間の土地』
プルーストやドストエフスキーなど
ひとりじゃ途中で投げ出すような大作も、仲間も頑張って読んでると思えば読み通すことができるそうです。
読書会の本ですが、ブックガイドにもなっていて、紹介された作品は読みたくなってしまいます。
ひとりで本を読んでいると、途中でさまざまな感情が押し寄せてきたり、考えにふけってしまったりすることがよくある。読み終えても、その思いはまだ言葉になりきっていない。そんな、いわば半熟状態のまま、わたしは読書会に臨む。すると、読みながら考えていたことや、考えもしなかったことが、ほかのメンバーの言葉を聞いているうちに次々と自分のなかから引きずりだされてくる。三十年近く読書会を経験していても、これはいまだに不思議なことだと思う。自分の思いに言葉が与えられ、形として放出できたときの爽快さはなにものにも代えがたい。そして、話し合いが終わるころには、作品を何倍も味わえたことに気づくのだ。ときおり、本の内容から雑談へとそれることがあっても、その雑談さえ、最後にはこれまで読んできた本のどれかに行き着く。それもそのはずだ。文学を語ることはわたしたち自身の人生を語ることなのだから。(おわりにより)
お読みいただきありがとうございました。