近年、複数の抗菌薬に耐性をもつよう変異した耐性菌が世界中のいたるところで発生するようになり、医師や研究者のあいだでは、「超(スーパー)耐性菌」として恐れられているそうです。
原因は医療現場での不適切な処方や農畜産業での見境のない抗菌薬の使用。
以前なら薬で治せたはずの感染症に薬が効かなくなり、患者の命を救うことが難しくなっています。
本書の著者、マット・マッカーシーは、ニューヨーク・プレスビテリアン病院に勤務する感染症の専門医で、研究者でもあります。
物語は、銃で撃たれた男性患者が救急治療室に運ばれるところからはじまります。
体内に残った弾丸を中心に広範囲で感染症を起こしており、それはこれまでの抗菌薬が効かないものでした。
ちょうどその頃、大手製薬アラガン社から未承認薬の臨床試験の依頼が来ます。
スーパー耐性菌に感染した患者の治療薬として有望な候補分子があるというのです。
話はこの未承認薬ダルバの開発を中心に進み、その過程で、ペニシリンをはじめとする抗菌薬発見の歴史や、ナチスやアメリカでかつて行われた人体実験の暗い歴史が記述されます。
治験審査委員会(IRB)や米国食品医薬品局(FDA)の承認を得て、ようやく治験が開始されますが、協力してくれる患者の同意を得るにも苦労があります。
治験の候補者の背景はさまざまで、ホロコーストの生存者や9・11のときに消防士として現場にかけつけた人もいました。
マットは幼い2人の子どもの父親でもあり、妻は腎臓移植専門医です。
患者の診療をしながら、臨床試験も行い、慌ただしくストレスの多い生活に苦悩します。
死にゆく人々から日常的に「かなりお疲れのようですね」と声をかけられるほどです。
マットが行き詰ったときに、よく聴く音楽がイーグルスの「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」
Take it to the limit
Take it to the limit
Take it to the limit
限界までやってみるんだ
この歌を作詞作曲したランディ・マイズナーは、アルコール依存症、心疾患、詐欺師によるなりすまし事件、繰り返される自殺願望などとの闘いの連続の人生だったそうです。
それでもこの曲を生み出したランディに、マットは背中を押されているといいます。
ダルバによってこれまでと同じ生活を送れるようになった人もいれば、そうでない人もいます。
細菌はとても賢く、抗菌薬を無効化するようあっという間に変異します。
対して、薬を見つける人間の歩みは、お金の問題も絡み、ひどくゆっくりしたものです。
それでも、マットは言います。
私たちは未知の薬に囲まれて生活しているのだ。そんな単純な事実に、私は驚嘆した。微生物は私たちのすぐ身近な場所で生物学的な闘いを繰り広げている。私は患者たちに迫りくる致死的な感染症のことばかり考えていたが、今はその感染症から回復する患者の姿も思い描けるようになった。表土のすぐ下に、病気の症状を軽減でき、感染症の流行を抑え込める小さな分子が存在する。私たちはとにかく、その分子を探し続けなければならない。(p332)
訳者あとがきによれば、ニューヨークで一人目の新型コロナウイルス感染症が確認された日の一週間後、マットの勤務する病院でも感染者が確認され、以来、彼は救急医療の現場に立って患者の治療に当たりながら、COVID-19の研究にも携わっているそうです。
2021年6月30日
光文社
定価(本体2300円+税)