知識としての歴史はフェイクである。
学校の教壇で教えられた歴史。
歴史書の中の歴史。
歴史家の説く歴史。
記録や資料の中に残されている歴史。
それらはすべてフェイクである。
最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。(序章)

 

 

立花隆さんとカメラマンの須田慎太郎さんが、1982年に約40日かけて行ったギリシア・トルコの取材旅行をベースにして作られた本です。

 

旅の当初からの目的は、「聖山アトスへ」向かうこと。

 

アトスとは、ギリシア北部のアトス半島にある修道院共和国のことで、ギリシア政府の権力がおよばない完全自治区です。

 

女性は入国できなくて、動物であっても雌は入ることができません。

唯一、ネコに関してはいつの間にか禁忌がゆるみ、雌ネコだけは例外なのだそうです。

 

 

複雑な経路をたどり、エーゲ海をほぼ一周します。

 

 

あとがきによれば、ロッキード裁判から解放される日が見えてきた82年、月刊『プレイボーイ』誌から、世界中どこでも好きなところへ行って、好きなこと書くという連載をもらったそうです。

 

はじめから単行本になる予定だったのが、まとまらないうちに20年の歳月が過ぎ、刊行されたのは2005年です。

 

 

 

パトモス島はエーゲ海東端の、ほとんどトルコの沿岸の沖合という場所にあります。

長さ16キロ、幅10キロほどのこの小さな島は、ローマ時代、小アジアからの流刑地として使われていました。

 

1世紀、キリスト教徒は、自分たちの神のみが真の神であると主張し続けたために激しく迫害されました。

使徒ヨハネも逮捕され、この島に流罪になったといわれています。

ヨハネはこの島で終末論的啓示を受け、「黙示録」を書きました。

 

黙示録が書かれてからすでに二千年近い歳月がたつというのに、世界の破滅も、ハルマゲドンの戦いも、死者の復活も、キリストの千年支配もなかった。
では、黙示録の預言とは何であったのか。ニセ預言者の妄言だったというのか。それとも、預言の成就はまだまだずっと先の話だというのか。あるいは、それはリアルな未来の預言ではなく、預言の形をとった象徴主義的な警世の言葉だったというのか。

 

 

「古代のキリスト教徒は、世界の終末は文字通り目の前に迫っていると思っていた」と、立花さんはいいます。

 

だからこそ、彼らはあらゆる迫害に耐え、殉教死することもできたのです。

自分たちは、殺されても間もなく復活するのだ。生き返るのだ。

 

「死んでも死なないと信ずることの強さが、キリスト教を度重なる迫害に耐えさせ、迫害されても迫害されても発展させていった」

 

 

「黙示録」の時代、世界の終末は来なかったが、それを信じたキリスト教徒が世界を変えたように、観念は世界を動かすことができるのである。

 

 

カメラマンの須田慎太郎さんがこの旅行で撮った写真は7000枚。

その後、自費で単身現地に行き、撮った写真も追加されてます。

 

 

 

遺跡を楽しむのに知識はいらない。黙ってそこにしばらく座っているだけでよい。
大切なのは「黙って」と「しばらく」である。
できれば、二時間くらい黙って座っているとよい。
そのうち、二千年、あるいは三千年、四千年という気が遠くなるような時間が、目の前にころがっているのが見えてくる。抽象的な時間としてではなく、具体的時間としてそれが見えてくる。

 

 

千年単位の時間が見えてくるということが、遺跡と出会うということなのだ。

 
 
カメラマンの須田さんが「チキショー、このオッパイいいなア。このオッパイいいなあ」とつぶやきながら、何度も何度もシャッターを押したというスフィンクス。
冥界の支配者プルートーに仕えた怪物とされ、エジプトのスフィンクスとはちょっと趣が違います。
 
2005年11月1日 第1版第1刷発行
書籍情報社
定価(本体1500円+税)