ポーランドの女性詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集『終わりと始まり』(1993年)と1996年に受賞したノーベル文学賞記念講演が収録されています。

 

東欧からロシアにかけては、いまだ詩という文学ジャンルが力をもって社会的に大きな役割を果たしているのだそうです。

古代ギリシャにおいて、詩人が社会的に決定的に重要な役割を果たす文化人・教育者と位置づけられていた歴史も無関係ではないのかもしれません。

 

終わりと始まり(抜粋)

戦争が終わるたびに

誰かが後片付けをしなければならない

物事がひとりでに

片づいてくれるわけではないのだから

 

誰かが瓦礫を道端に

押しやらなければならない

死体をいっぱい積んだ

荷車が通れるように

 

詩集が出版された当時は、社会主義体制の崩壊と詩人の夫の死という個人的出来事が重なった暗い時期でもありました。

 

友人たちの多くがすでに世を去り、自身も歳をとって、死をより身近なものとして意識し始めたことも反映されているようです。

 

それでも、シンボルスカが絶望していないのは、タイトルから読み取れると解説者は言います。

まず「終わり」があって、それから「始まり」が来るのだ。これは、すべてが終わったとしても、たとえゼロからでもまた詩は新たに書き始められなければならない、というきっぱりとした決意の表明ではないか。

 

ノーベル文学賞の受賞記念講演は、わかりやすくも力強い言葉で世の中への問題提起を試みています。

 

彼ら(独裁者や狂信者)は「知っている」のです。彼らは知っているから、自分の知っていることだけで永遠に満ち足りてしまう。彼らはそれ以上、何にも興味を持ちません。興味を持ったりしたら、自分の論拠の力を弱めることになりかねないからです。そして、どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。そして、現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって致命的に危険なものにさえなり得るのです。

 

そして、日常的な話し言葉では「普通の世界」とか、「普通の生活」といった言い方をするけれども、一語一語の重みが量られる詩の言葉では、平凡なもの、普通のものなど何もないと言います。

どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても。そして、とりわけ、この世界の中に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです。

 

一昨日は部分月食がきれいに見えました。

特別な夜の特別な月と同じく、毎日見る月も特別なものなのかもしれません。