1958年、四国生まれ。

クリスチャンの母親の影響で地元のプロテスタント教会で信仰教育を受け、高校3年時に洗礼を受ける。

 

・幼少期から聖書の教育を受け、自我が確立されるべきときに自分の考えを抑えることにより、今も苦しんでいる。

・信仰を失っても共同体を抜けるのが難しい。

・教会の礼拝や行事に忙殺され、寄附金を求められ、疲弊していく。

 

これってどこかのカルト宗教?

と思ったら、プロテスタントなんですよ。

 

筆者は聖書自体にマインドコントロール力があると主張します。

私はクリスチャンや教会を批判したいのではありません。彼らの動機のほとんどは献身的で純粋です。私が糾弾したいのは、聖書のマインドコントロール力です。(まえがきより)

 

 

罪の意識

罪の意識は人々の心をがんじがらめにし、人間の本来の欲求や感情を押さえつけてしまいます。抑圧された感情はストレスとなり、健全な人間関係は失われていきます。なぜなら罪意識というのは、自分を責めると同時に他者の罪をも責めることにもなるからです。だから、そのような罪人の集まりである教会という共同体は、本来は許しあうはずの共同体のはずが、ひとつ間違えれば罪を裁きあい分裂する危険性も非常に高いのです。

 

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます・・・」

 

パウロの「愛の章」も、結局は人々に罪を認識させる規定に過ぎません。そのようにできない自分を責め、相手をも責めることになります。

 

もしこのような愛を実際に実践している、という人がいるなら、その人は偽善者でしょう。このような律法的な言葉で導かれる教会の中は、どれほど息苦しいものでしょう。終わりのない罪意識との戦いの連続です。

 
抜けられない

社会の組織はやめたければいつでも自由にやめられます。ところが、教会という組織は、やめることは簡単ではありません。教会を離れた信仰生活など、あり得ないからです。

 
終末思想

本気で信じた人々は仕事や学校を辞めたり、財産を処分して教会に献金し祈祷院で集団生活をしたり、国内のみにとどまらず海外にまで宣教活動を始めた人もいました。

 

もうまもなくこの世界は終わりを迎えるのに、勉強や金儲けなどしている時ではない、全世界への宣教に最後の力を注ぐべきだ、ということでしょう。

 
教会に通っていて幸福な人もいらっしゃるでしょう。
聖書を心のよりどころとして、信仰の人生を歩むことを私は否定しません。
 
この本によると、戦後、日本中でキリスト教を学ぶ場がたくさんつくられたそうです。
 
こんな息苦しいキリスト教のやり方は日本独特なのかもしれません。
 
もともと「神さま」ではなく「人さま」の目を気にする日本人が、戒律的な宗教を受け入れたときに起きた、同調圧力のようなものが作用していたとも考えられます。
 
 
筆者は自身に生じた問題が、神がいるならあり得なかったとして信仰を失ったようです。
そこはプライバシーへの配慮があり、詳しくは語られません。
閉鎖病棟に入院するような精神的な危機もあったようです。
 
そして、この本を書くことによって人生をリセットし、キリスト教への怒りや喪失感から徐々に解放されつつあると語っています。
 
なんであれ、問題の原因を自分以外に探るなら、解決は難しいでしょう。
親が悪い、教会が悪い、聖書が悪い。
それはそうかもしれませんが、親も教会も聖書も変わりません。
何を言ってもです。
 
変えることができるのはこれからと、自分自身だけ。
 

長い間、宗教は人間が幸福になるためにあると、人々に信じられてきました。人類を支配してきた宗教の本質が何であるか、今の時代であるからこそ検証できるのです。永遠のベストセラーと呼ばれ続けてきた難解な聖書を、あらゆる角度から見ることのできる時代です。

 

キリスト教の本質を理解することは、クリスチャンにとってもそうでない人にとっても、多くの人に解放をもたらすと信じます。

 

それはたった一度の人生を自分らしく生きることにつながり、周囲の人々をも解放していくことになると信じたいのです。

 
2020年11月26日 第1刷発行
定価(本体1200円+税)
発行:幻冬舎メディアコンサルティング
発売:幻冬舎