「真理とは何か」

 

イエス・キリストに死刑判決を下したローマの総督ピラトが言った言葉です。

ニーチェは新約聖書の中でただ一つ価値を持つ言葉といっていいといいます。

 

「真理」などという簡単に知ることができないことをキリスト教はあるという。

「真理」を軽々しく語る預言者や宗教の指導者は偽り者だと。

 

キリスト教に対する批判が繰り広げられる『アンチクリスト』の現代語訳です。

省略されたり、つけ加えられているところもあるみたいですが、ニーチェの言いたかったことが大体わかるような……

 

ばっさばっさ切っていきます。

こんなに切っていいのかしら。

 

ユダヤ人の神だったエホバをキリスト教は人類の神にしてしまった。

そして、「道徳」を作り、「愛」を語り、「おとぎ話」で人々をだましたというのです。

 

そうだったのかあ。

 

イエスの教えとキリスト教は無関係

 

・キリスト教が「この世」と呼んで否定するのは、「人が愛国者であること」「自分の身を守ること」「自分にとっての利益を求めること」「自分に誇りを持つこと」といった、人間が生まれつき持っている本能です。

 

・イエスの教えでは、「神の国」は現実の世界に存在しているものだったが、弟子たちによって、「約束されるもの」や「終末にやってくるもの」にされてしまった。

 

・公共心は何のためにあるのか。先祖に対して感謝するのはなぜか。仲間と一緒に働き、信頼しあって公の利益を生み出すのは何ためか。こういった大切な問題が、キリスト教では、「誘惑」や「正しい道からはずれること」とされているのです。(p102)

 

イエスを利用してキリスト教をつくり上げたかどで、パウロも非難されています。

ルネサンスで滅びるはずだったキリスト教を生きながらえさせたと、ルターも断罪。

 

キリスト教の考え方は西洋思想の根底をなし、今の世界はその思想の下に形作られています。その思想をとり入れた日本人も、何がいいとか悪いとかについて、知らないうちにキリスト教の影響を受けていることでしょう。

 

ものごとを信じ込む人は、価値を判断することができません。

ものごとを信じ込むことは、牢屋の中に入っているのと同じ。

外の世界のことも、そして自分のことさえわからないのです。

 

結局、ニーチェもキリスト教的土台で考えていたのかもしれない。

なかなか難しいのです。