野兎、鴉(カラス)、トウゴロウ、岩茸、野鴨、鮎、鰍(カジカ)、山椒魚、スギゴケ、スガレ、ザザ虫、イナゴ、槌鯨、熊、海蛇(エラブウミヘビ)、海馬(トド)

 

通俗的な「悪食」や「ゲテモノ」を擁護し、復権を目論んでいるわけではないと言います。

鮎や鰍、野鴨、岩茸などは日常的といえるかもしれません。

 

捕り方がおもしろいです。

房総清澄山麓の村に住むという鮎名人は、生業は大型重機のオペレーターです。

鮎漁が解禁になると、川通いが日課になります。

鮎を捕るのは手づかみ。

 

川に潜ると、両手の指と指の間に、一匹ずつ鮎を挟み、それでも足りないと、口に一匹くわえて上がってくるのだそうです。

遠藤さんがその目で確かめています。

 

さらに奇抜なのは、四国、高知の仙人と呼ばれる男。

すっぽんぽんの丸裸で川につかり、足を開いて股の間の鮎を叩き捕るという方法。

 

春先、若鮎は川を遡上するのだそうです。

川を遡上する鮎は、最初は裸の人間を警戒して寄ってこない。

動かずにじっとしていると、両足を広げた股の間の窪みが鮎の休憩所になるのか、徐々に集まってくる。

「これを、”鮎のチン叩き漁”いうんや!股ぐらンとこに来たときに、鮎の頭の方から素早く、静かに掴むンがコツやきね。」

 

道具に頼らず、裸で勝負する。

リスクが大きいほど、捕ったときの喜びが大きい。捕ったら、命に感謝して美味しくいただく。食べ方にも貪欲である。命に対する崇敬と贖罪があるゆえに、骨や皮まで無駄なく食べ尽くそうとする。それは何も特別なことではなく、かつてはどこでも見られた風景だった。

 

それは、我々現代人が忘れかけていた原風景でもある。自然が身近にあり、暮らしのあらゆる部分を自然に依存していた時代には、命の糧に対する素朴な感謝だけがあった。人間が慎み深く向き合えば、自然は豊かな恵みを保証してくれる。そこには美食や悪食の概念はない。ましてや、食い散らかしの飽食文化の入り込む余地はない。(まえがきより)

 

虫一匹殺せないくせに、いっちょ前に牛さんに食いつきます。

そんな自分に時々はてなを感じるときもあるけど、うまいものはうまい。

一食一食ありがたくいただきたいな、読んだ直後はそう思うんですけどね。