作家の安倍龍太郎氏は、2015年から地方紙で連載を始めた『家康』の中で、家康とお市の方の清冽なベッドシーンを描いたという。

 

氏は、家康の重臣松平家忠が残した「家忠日記」を読んで、信長の妹お市の方と家康は婚約し、床入りも済ませていたと思い始めたらしい。

 

その記述によると、信長は手ずから御膳をすえ、麦こがしを引いて家康主従をもてなした。その上、信長は、引き出物に帷子を2つずつ与えたが、そのうち1つは女性用の紅の生絹だったという。

 

平安時代、一夜二夜と共に過ごし、三夜目になれば婚約が成立したとみなし、女の父親が三日夜の餅でもてなし、女の着物を三日夜の衣としてお土産に持たせた風習があった。

信長がお市の方の父親替わりとして、家康をもてなしたのではないかと考えたのだとか。

 

さらに、お市が勝家と政略結婚させられた後も家康に思いを寄せ、贈り物をしていたらしいという記述も見つけた。

 

ここまでは、安倍氏が「事実と確信している」というだけだったが、昨年、上梓された「キリシタン教会と本能寺の変」(角川新書)の巻末に、フロイスが書いた「信長の死について」と題する書簡を見つけたという。

 

そこには「明智の家臣たちは本能寺に向かう時、〈明智は、信長の義弟である三河の国王(家康)を殺害するつもりかと考えた〉とあった。

家康が信長の義弟と呼ばれるのは、お市と婚約していたからとしか考えらえないのだと。

 

氏はこんな大事なことが、なぜ今まで隠されてきたのかと考察されておりますが、誰が誰と結ばれていたかなんて、実際のところ当事者しかわからないし、どうでもいいことなんでしょうね。

 

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