2015年に大阪から奈良の里山に移り住み、ほなみちゃん(稲)、ひだぎゅう(大豆)、ニック(鶏)とともに米と大豆と鶏卵を自給し暮らしているという著者は1991年生まれ。

 

田んぼをやっているというとあたかも無欲で感心な若者と目されることが多いが、とんでもない間違いなのだそうです。筆者はいかにも害のなさそうなはつらつとした若者を演じることが苦にならないので、地域社会になじむためにそのような誤解をあえてそのままにしているといいます。

 

さらに、里山というと牧歌的なイメージを持つ人が多いが、それも誤りで、里山は「超俗」などではなく、「チョー俗」。

そもそも生き物たちはみな我欲の塊なのであって、里山には人間が少ない分、煩悩まみれの生物たちがうじゃうじゃいるのだそうです。

 

人間社会の奢侈(しゃし)への執着や人間ばかりが蔓延する都市を「欲求の貧しさ」と捉え、里山こそ、貪欲な多種たちの賑やかな吹き溜まりであると主張します。

 

挑発的な文章の合間に里山の四季が語られ、迫力ある写真も数枚載せられています。

各章に引用されている本がまた興味深く、それも併せて読みたくなってしまう。

 

著者は中学、高校と同調圧力に鬱々となり、そんな状況から逃避するため海外留学するも、そこでも鬱々とし、帰国後、大学に行ってみるも、やはりなじめず、社会に適合しなかった人間だと自らを称します。

そもそも無人島へ行ったら人間なんか何人いても役に立たず、そこには食い物である異種の存在こそが必要なのだと。

 

紹介されている詩がすてきなので引用します。

 

私はここにいて、見ている それがめぐりあわせ

頭上では白い蝶が宙を舞う
はためくその羽根は蝶だけのもの

わたしの手の上をさっと飛び去る影も

ほかの誰のものでもなく、まさしく蝶自身の影

 

こんな光景を見ているとわたしはいつも

大事なことは大事でないことより大事だなどとは

信じられなくなる

 

ヴィスワヴァ・シンボルスカ「題はなくてもいい」『終わりと始まり』沼野充義訳(未知谷、1997)

 

表紙の絵は2020年VOCA展大原美術館賞受賞の浅野友理子さん作「くちあけ」

浅野さんは東北地方で地域の食文化や植物をテーマに活動をする若き画家さんです。