2025年7月2日発行
講談社
第二次大戦中、米軍との激戦が行わた硫黄島。
この島には戦前、1000人を超える住民がいたそうです。
川のない土地で水の確保には苦労したものの、パパイヤやマンゴーが採れ、レモングラスの栽培がされるなど、南国の島民は家族のように暮らしていたといいます。
暮らしが一変するのは1944年7月。
軍属として残る16歳以上の男子を除く全島民は、父島経由で本土に強制疎開させられます。
働き手も仕事もなくした人々は困窮し、子どもたちは養子に出され、一家離散した家族もありました。
戦後、アメリカの領土となった小笠原諸島は、1968年に日本に返還され、父島、母島などの旧島民はふるさとに帰ることができました。
ところが、硫黄島だけは帰島許可が出ません。
現在、硫黄島には自衛隊が駐留し、米軍の演習も行われますが、元住民の上陸が許されるのは墓参などのため設けられる年に数回の機会のみ。
「星が綺麗だった」という記憶がある人も既に90歳近くなり、帰島のための活動は子や孫に細々と受け継がれている印象です。
戦後、硫黄島に一般人が渡ることができなくなったのはどうしてか。
北海道新聞の記者である著者が、執念でたどり着いた答えは。。。
全国に離散した島民と子孫はいまだに帰島が認められていない。多くの日本人はその事実を知らない。日本固有の領土なのに、旧島民が自由に渡航できないのは、北方領土だけではないのだ。(中略)
第2次世界大戦中に全島疎開となった島で、21世紀になった現在も戦争時疎開命令が解除されていない島は、世界を見渡しても硫黄島だけとされる。
著者の酒井さんは1976年、北海道に生まれました。硫黄島での遺骨収集に意欲を燃やし、そのために東京に支社を持つ北海道新聞の記者に転職します。本業のかたわら、休日は、戦争などの歴史を取材・発信し、自ら「新聞記者」ならぬ「旧聞記者」と称して活動しています。
硫黄島には政府派遣の硫黄島戦没者遺骨集団のボランティアとして数回渡り、その経験も踏まえて書かれたものは『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』として上梓されています。
この島から、いまだ本土に帰れない遺骨と島に戻ることができない島民。
「戦争は終わっても戦禍は終わらない」という酒井さんの言葉が心に残ります。
おつき合いありがとうございます。