前のブログで、父方の祖母について書きました。

 

父方の祖母は、ブログで書いたように

とてもアグレッシブな女性でした。

 

一方母方の祖母は、おっとりした静かな人でした。

旧家のお嬢さんだった祖母は、気品があり、しゃべり方もゆったりしていて

祖母が声を荒げることなど、一度もみたことがありませんでした。

こんな優しい祖母から、あんなガサツな母が生まれたのか

いまをもって、不思議でなりません。

 

私には、同齢の従弟がいました。

母の弟の娘です。

私たちは幼少の頃から、仲が良く

家族で母の実家に遊びに行った際も

私だけが残り、母の実家に長く泊まり

従弟と遊んでいました。

 

祖母は、そんな時、私のために寝間着を温めてくれたり

あんかを布団に入れてくれました。

時には、従弟に黙って、お小遣いもくれました。

 

ある時、従弟は家族そろって、叔母(叔父の奥さん)へ出かけ

私は、祖父母と3人になったことがありました。

私は、自ら祖父母の家に留まったのにもかかわらず

なんとなく淋しくなって

「家に帰りたい!」と泣きじゃくってしまいました。

時は深夜で、いくら我が家が歩いて30分くらいのところだといっても

帰るわけにはいきません。

祖母は、困惑したものの、私の布団の横に自分の布団を並べ

そっと手をとってくれ、なだめてくれました。

そして、いつの間にか寝入り

朝を迎え、いそいそと我が家に帰りました。

祖母は、私の姿が見えなくなるまで、笑顔で見送ってくれました。

 

それからずいぶん経って、私が年頃になった時

祖母が、金のネックレスを買ってくれました。

わずかな年金から捻出したようでした。

そのネックレスは、メッキ製だったため

あとでケースをあけると、錆びていました。

 

でも、そのネックレスは、いまでも私の宝物です。

祖母が私のために、精一杯の気持ちを込めて、贈ってくれたものだからです。

 

母は、祖母のことが誰よりも好きでした。

祖母が死んで、そっと祖母の写真を箪笥の片隅に置き

毎日、手を合わせていました。

 

私は、父母姉の写真を仏壇に飾って、手を合わせていますが

母の写真の横には祖母の写真も一緒に置いています。

祖母と母がずっと一緒におられるように。

 

 

私にはふたりの祖母がいます。

父方の祖母と母方の祖母のふたり。

 

父方の祖母は、私が高校生の時に死にました。

私が中学生の時に脳溢血になり、それ以来寝たきりの生活でした。

当時は現在のようにリハビリなどをして少しでも動けるようにする考えはなく

祖母は、毎日自宅の天井をみつめながら生きていました。

 

祖母は、とても気丈な人でした。

そして感が働き、頭の回転も速く

商才に長けていました。

 

祖母は、私が生まれる前から、自ら自宅前を改造し

駄菓子屋を立ち上げていました。

商売熱心な祖母は、駄菓子だけでなく、日用品も扱っていました。

当時なかなか免許が取ることが難しかったたばこ、塩、切手なども

認可を受け、販売し、家の前にはポストまで立っていました。

 

夏になれば、かき氷までやっていました。

店先に「かき氷」の旗をかかげ

軒下には、大きな縁台までおいていました。

 

我が家は、いわゆるメインストリートにある店ではありませんでしたが

祖母のニーズにあった品揃えで、それなりに繁盛していました。

とりわけ、かき氷をはじめる盛夏には、大変な賑わいで

私たち孫まで、手伝いに駆り出されていました。

祖母が作る金時氷は、それは評判で、

安くてうまいと遠くからも人がやってきていました。

 

祖母は、とにかくあんこを作るのがほんとに上手かった。

お正月の餅つきの時は、出来立ての餅にあんこを入れて大福をつくってくれたり

春には、よもぎを摘んできて、草餅を作ってくれた。

あまりたくさん作るので、知り合いに配ると

空になった重箱には、届けた私のためにお駄賃が入った小袋があった。

だから、祖母に持っていくように言われると喜んで届けた。

 

祖母は、働き者で、そしてとても手先の器用な人だった。

暇ができると内職の縄を編んだり、いらなくなった布で雑巾を作っていた。

ある時、祖母が「たくさん雑巾を作ったから、学校へもっていくように」と

100枚はあろうたくさんの雑巾を私に預けようとした。

 

私は、それを言われて「イヤ!」と断った。

なぜか、雑巾を持っていくことが恥ずかしかったのだ。

 

そして翌朝、全校生が集まる朝礼で、校長先生が

「昨日、在校生のおばあさんが、みんなのために手作りの雑巾を寄付してくださいました」と言うではないか。

あとで、聞いたら、祖母は母を伴い、私が通う小学校に出向き、雑巾を渡してきたのだ。

それが話題になり、新聞社も駆けつけ、写真付きで新聞にも掲載された。

私は恥ずかしいだけだったが、祖母は、いつも「雑巾」と言って母に要求していたのを聞いていて

きっと学校にはたくさんの雑巾が必要なんだろうと思い、寄付しようと思ったらしい。

そんな祖母の偉大さに気づき、恥ずかしがっていた自分を恥じた。

 

おばあちゃんっ子だった私は、お祭りのときは決まって祖母と縁日に行った。

そこで祖母は、ビニールでつくった造花を買ってくれた。

造花には、うっすらと香料が掛けられ、子供ながらなんとなくうっとりしていた。

 

そんな祖母が、病に倒れ、寝たきりになった。

おばあちゃんっ子だった私は、学校から帰ると、真っ先に祖母の枕元に行き

今日あったことなどを話していた。

祖母は、それを目を細めて聞いてくれ

時々、布団の下に忍ばせていたお金を私にくれた。

 

そして明け方、祖母は死んだ。

悲しくて、悲しくて、祖母の死顔をすぐに見ることはできなかった。

祖母はいつも私に言っていた。

「おまえは、あわてものだ。もう少し考えて行動しなさい」と。

 

きっと、その性格はいまも変わらないだろう。

 

「ばあちゃん、私もばあちゃんの年頃になった。

少しは、考えて、落ち着いて行動しているよ」と

小さな声で、ささやいた。

 

きっと天国にいる祖母は

「まだまだだよ」と言って、たしなめているに違いありません。

 

 

 

 

私は、小さい頃は、理屈ぽくネクラであったように思います。

 

人はなぜ生きるのか。

人は何のために生きるのか。

生きがい、ってなんだ。

 

なんてことを小学生ぐらいから考えていました。

 

あれは20歳頃でしょうか。

私はOLでした。その頃はBGなんて言っていたかもしれません。

BGとはビジネスガールの略です。

 

当時、学生運動や労使間争議が盛んだったように思います。

私は特定のイデオロギーに傾倒していたわけでもなく、

勤める会社の労使関係は、労使協調を掲げる穏健派で、

確か所属する労働組合は「同盟」だったような気がします。

 

私は思想的なことや労使の定義など、論理的に深く考えたこともなかったのですが

世の中は、会社を経営する人、そこで働く人に大別され

それぞれが、それぞれの立場で働いているけど

人権的には対等だと思っていました。

 

ですが、会社を経営する人は社員の給料は経費にあたるわけで

それが増えれば、当然会社の利益が減る。

会社は基本的には、アップダウンの命令形式の業務スタイルで運営されている。

そこで経営者は、持てる力で、人事異動を強要し、あるいは解雇したり、格下げ、減給にしたりできる。

だけど、現場で働く人々つまりサラリーマンは、

働いてスキルアップして給料が上がり、生活をレベルアップしたいと思っていても

それが叶わなかった時、それに抵抗するには

働くという労働力で対抗するしか太刀打ちできない。

 

それは個人の力ではどうにもできないから

現場で働く人々は団結して、抵抗し、要求を勝ち取ろうとする。

その抵抗の手段として、ストライキがある。

 

私が青春時代を送っていた時は

ストライキが盛んだった。5月1日のメーデーの日も大いに賑わっていた。

 

私も現場で働く人間でしたから、ストライキには賛成でした。

 

ある朝、父は朝刊を広げ「国鉄(現:JR)のストライキ決行に目をひそめていた。

「勝手に、汽車(当時は国鉄のことを汽車と呼んでいた)を止められては

こちらは商売に差し支えてしまう。困ったもんだ」と。

 

富山の売薬さんだった父は、当時販売地で売る薬を

国鉄の貨物便で送っていたのだ。

サラリーマンでない父は

「会社員は、毎月の給料が保証されているけど

わしら商売人は、自分の足と手で働かないと、一円も得ることができない。

そのことを国鉄で働く人はわかっているのか。自分のことばっかり考えて!」

と怒っていました。

 

なるほど。父の考えもわかる。

人は立場が違うと考えも、思いも違うのだ。

 

私は一応働いてはいるものの

両親が住む家に同居して、住む場所、食事を提供してもらっている。

それは両親の経済力に支えられているわけだ。

その経済力を作っているのは、父の仕事だ。

その仕事で得られる収入を、ストライキによって危うくしている。

 

私は四面楚歌に陥った。

ストライキを支持すべきか、せずべきか。

 

しかし、私が悩んでいるうちに

ストライキは終了し、父はぶつぶつ言いながらも、せっせと荷造りをしている。

 

生きるって、理屈じゃないんだ。

悩んでも腹は減る。

悩んでいても、毎日生きていかなくちゃならない。

 

それに気づいたのは

ずいぶん歳を取ってからだ。

 

動物は、俺はなぜ生きているんだろうと悩んだりしていない。

生きているから生きている。

 

こう言ったら、非難されるかもしれないけれど

夢とか目標とかは、生きるための方便でしかないのかもしれない。

 

生きているから、生きる。

それには方便であれ、なんでもこじ付けて

楽しく生きるしかない。

 

だろうな。