私には、ひとりの姉がいました。
そのことはあまり知人にも話さず、ブログでもあえて取り上げていません。
なぜか。
姉のことは、そっとしておこうと思っていたからです。
姉は父母の最初の子でした。
姉は生まれた時から体が弱く、父母はいつも心配をして
彼女を見守ってきました。
そのせいか、姉は心が育っていませんでした。
世の中は高波で吹き荒れています。
ずっと父母の愛に包まれて過ごした姉は
多少の世の中の刺激でさえ、心が傷ついてしまいます。
心が傷ついているのを感じた父母はさらに愛を注ぎ
彼女がいつも安全地帯にいられるように計らってきました。
これでは、社会で生きる強靭な心など育つはずがありません。
姉は私よりふたつ上ですが
私はこの姉のことを頼れるお姉さんと思ったことは一度もなく
返って私の方に頼られ、父母もそれを願っていました。
わがままで、自由奔放な私は
ある時まで彼女のことをうとましいとさえ、思っていました。
ただ、なんなんでしょうね。
あまりにもあっさりしていて、愛情を感じなかった母が
小さくなった背中をみて、愛しくなりました。
そして負担だと感じていた姉が
あんなに愛されていた父母が先に逝き
その後、持病が悪化し、入院を余儀なくされた姿をみて
あぁ、この人は、もう私しか頼る人がいないんだ。
と思うと、姉なのに妹のように愛おしくてしょうがありませんでした。
病に苦しむ姉をどうすることもできませんでしたが
できるだけ毎日、見舞おうと決め
病院への面会を日参にしました。
ある日、どうしてもはずせない所用があり
病院へは行けない時がありました。
すると、翌日入院している病院から
「お姉さん、妹が来ない!」と泣いていらっしゃいますと。
慌てて、病院へ駆けつけると
姉は、私の顔を見て安心したのか、その夜は安らかに眠った。
と後で看護師さんからききました。
姉は、私を頼っている。
もう長くないとも聞かせられていました。
その時、父母の顔が浮かびました。
父からは母と姉のことを頼むと生前に懇願されました。
父亡き後、母と姉は、まるで双子のように寄り添って生きてきました。
母に「姉ちゃんは、体が弱いから、ひとりにしないで。とにかく姉ちゃんより長く生きて」
と私は高齢の母に向かって、残酷なことを言っていました。
しかし、死の順序は正しく、母は姉を残して逝ってしまいました。
母は、88歳と高齢でしたが、健康でした。
自分のことは自分でし、食事は朝食を姉がつくり、
昼食や夕食は、姉のと一緒に宅配の弁当を利用していました。
掃除は姉が行っていたようですが、
洗濯や洗濯物干しは母が行い
近所への用事には、台車を引きながらもちゃんと歩いて出かけていました。
その母が、大晦日の夜、急死しました。
その姿を最初にみたのが、姉です。
双子のような親子の一方が急にいなくなったのです。
その時の姉は、母の死が受け入れられず
とても信じられないような顔つきでした。
姉は、体調が悪く、正月明けに入院することになっていました。
母が急に死んで、病院にお願いして
入院を早めてもらいました。
以来、姉は、母が死んでから一年半病院生活を続け
死にました。
姉が危篤だと病院から連絡が入り
未明に病院に駆けつけました。
姉は、酸素呼吸器をつけられ、目を閉じたままでした。
だんだんと血圧が下がっていき、死期が迫ってきていました。
私は姉の手を握り
いつも「うちに帰りたい」を言っていたのを
「誰もいない家に帰ってどうするの」と私は否定していましたが
この2~3日前から、
「姉ちゃん、元気になって、早くウチに帰ろう」と
苦しまぎれともつかない嘘を方便とばかり唱えていました。
その時の姉は、目を細め、微笑んでいました。
私は、臨終の間際と思われる時も、そう唱えました。
すると、それまでずっと目を閉じていた姉が
わずかではあるけど、目を開け
力のない声を出し絞るかのようなかすかな声で
「ありがとう」と言ってくれました。
そして、その数秒後に、別室で心電図とにらめっこしていた医師が駆けつけ
「ご臨終です」と伝えにきました。
私は姉の死の前に、父、母の死に遭遇していますが
その死に目にはあっていません。
姉は私に最後の姿をみせてくれたのです。
しかも素晴らしい言葉を贈ってくれました。
私は姉の死を目前にして、悲しかったけど、ほっとしました。
ようやく、愛された父母に会えると思ったから。
私は小さな仏壇を買って
毎日、父母姉の写真を仏壇前に掲げ
線香をあげています。
苦しい時なぜか、この3人の顔が浮かんできます。
「はやく、こっちにおいで」とは言わないけれど
3人は、静かに微笑んで、私を見ています。
しぶとく、今日も生きているのは
父母姉に守られているからかもしれません。