〈トレガー・アプローチと私。24話。からつづく。〉
悪性リンパ腫と診断された。
リンパ腫はすこぶる種類が多い。
種類を明確にするために、生検が行われた。
生険の結果、私の病名は、瀘泡性リンパ腫と確定された。
瀘泡性リンパ腫は、進行は遅いものの
再発の多いリンパ腫である。
治療は、抗がん剤治療が考えられた。
ガンの治療方法は、手術、放射線照射、抗がん剤投与が定説であった。
白血病と同様、血液ガンであるリンパ腫は手術による治療は無意味。
と、いうことで、私は抗がん剤治療を行うことになった。
しかし、私が住む地方は、当時血液内科を扱う病院は少なく、私が検査した病院は、血液内科がなかった。
治療するために、転院することになった。
私は、ガンを発症したこともショックだったが、抗がん剤治療を行うことに躊躇があった。
私は以前から、
人間そのものが持つ頑強で繊細な生命力を信じていた。
ガンは自分が作ったもの。
体に異常に気づけば、体は自ずと
免疫力を発揮し、やがて自然治癒と信じていた。
気づいたり、自然治癒ができないのは
薬に頼ったり、外部的処置により
体の感覚を鈍化させ、
生命力と免疫力を弱めるためだと確信していた。
だから、端から抗がん剤治療を受ける気持ちはなかった。
しかし、私の気持ちとは裏腹に
抗がん剤治療へと、ことが進んでいた。
成り行きの流れによっと、あっという間に
結局第一回目の抗がん剤投与が行われた。
自分の体をみつめることを第一に考えていた私は、この抗がん剤投与による、体の激しい抵抗感を、ひしひしと、感じた。
体はほんとに嫌がっていた。
体のエネルギーは、混乱し、電石火のごとく
超高速で駆け巡った。
私は、直感的に危機感を感じ
主治医に、抗がん剤治療の中止を求めた。
驚いた主治医は、他の医師陣を集め
私に続けるよう要請した。
その時立ち会った夫も同意見だった。
私は医師4人と夫の5人を前に
退院を告げた。
実は、転院する前から
知り合いデザイナーから
真っ向からガンの三大治療に反対し
代替治療を進める
北海道在住のジャーナリストの情報を得ていた。
私は、それから彼に直接連絡を取るようになり
いろいろ相談もしていた。
そして今回のいきさつを話したところ
北海道に代替治療を行う医師がいる。
北海道に来て、それを受けたらと言われていたのだ。
北海道❗と思ったけど
思ったらまっしぐらの私は
突然の退院後の2日後には
新千歳行きの飛行機に飛び乗っていた。
空港では、トレガーのH ちゃんか迎えに来てくれていた。
しばらくして、クリニックの用務員の方がやってきて、クリニックまで連れってくれた。
広い「でっかいどう」を車で走ること1時間。
クリニックで診察する老齢の医師と対面。
あいさつもそこそこに、低周波機器のような
道具を使った治療が始まった。
治療はとても気持ちいいものだった。
最後は眠ってしまっていた。
診療を終え、あるいはアパートに案内される。
クリニックなので入院施設はない。
クリニックの近くにアパートを借りた。
当然、自炊を強いられる。
病人にとっては、買い出し、調理は
それなりに負担だ。
それでもそうしないといけなかった。
夜に、突然高熱にうなされることもあった。
医師に連絡すると、すぐに駆け付けてくれ
解熱剤を打って、とりあえずは熱は下がり
体調は落ち着いた。
たが、私が思っていたのと違い、あまり効果は感じられなく、不安を感じるようになった。
加えて、病気を抱えての異郷の地。強いホームシックに襲われた。
その時、同様の思いで札幌から治療受けに来ていた女性が、一緒に札幌に行かない?と誘ってくれた。
私は彼女に連れられ、札幌に同行し
食事やスピリチュアル系のお店を訪問した。
彼女と別れた後、札幌のホテルに泊まる。
夜中に急に悪寒に襲われ、急きょ札幌市内の病院に担ぎ込まれた。
胆管に挿入しているステントが外れ
胆汁が逆流していたのだ。
ステントの再挿入により一命を取り止めた。
その時、富山に帰ろうと思い、翌日
飛行機に飛び乗った。
家に戻って、しばらく静かに暮らすことができた。
東京に、サプリメントを駆使して
ガンを治している医師がいると聞いて
上京することにした。
東京のその医師は、国内でもかなりの有名な人で知られ、診察室は多くの患者で溢れていた。
診断の際、肝臓値がかなり高いが、これは体内で、まさにガンを打ち砕いている証拠。効果が出ていると思われるので、頑張るようと励まされた。
そんな激励が、あったももの
帰りの飛行機の中で激しい背痛に襲われた。
家に戻り、とりあえず一晩を切り抜けた。
だが、朝になりまた悪寒に襲われた。
自分で救急車を呼び、一抹の躊躇は感じたものの、飛び出した病院を指定した。
ERに当時の主治医が駆けつけてくれた。
突然の駆け込みに医師も驚いた。
ただ、この場においても、私は抗がん剤治療を再開する気が起こらなく、それを言うと
今すぐ病院から出ていって行ってくれと
宣言された。
それで決めた。抗がん剤治療をしようと。
それは医師に追い出し命令されたからでも、抗がん治療に納得したからでもなかった。
もう私のことで、夫に犠牲を強いてはいけないと思ったからだ。
この時の挫折感は、言いようもないものだった。ガン宣告された時以上に大きなものだった。信じていたものが、粉粉に打ち砕かれたのだ。
私は腑抜けの無気力状態となった。
次回に、つづく。