罪を犯した人間は、逮捕され、裁判にかけられ、何が悪かったかを審議の末、罪状が確定し、罪に応じた制裁が課される。


何が「罪」なのかは、法律を根拠に決められる。何を是とし何を非とするか、沢山の議員によって話合われ、時間をかけて法律が定められる。


法律に従って、裁判官が人を裁く。裁判官には人を裁く責任がある。間違った裁判官は罷免出来るように、民衆が裁判官を裁く、裁判官審議制度が設けられている。


人が人を裁く、ということについて、これだけ慎重に事が進む仕組みになっている。人類が時間をかけて、皆に公平な幸せが得られるようにと考え続けて出来た仕組みだ。


現在、この仕組みが意味をなさなくなっている。

人を裁判にかけなくとも、簡単に社会的制裁を加える事が出来る。


「罪」を犯した人間は、SNSで炎上し、吊るしあげられる。


何が「罪」なのかは、民衆の感情によって決められる。「民衆の気にさわること」が最も重罪だ。


沢山の民衆の感情によって、罪人は裁かれる。

罪人が実際何をしたか、という事実はあまり重要ではなく、この罪人のどこが気に入らないか、という感情論で審議が続く。

何なら審議の途中で、ある事ないこと尾ひれが追加され、罪人の罪状はどんどん肥大化していく。


罪人は不特定多数の民衆によって裁かれる。裁きを行う民衆というのは、顔を持たない不特定多数の集まりだ。民衆個々には無責任に発言出来る権利が与えられており、罪人を裁くことについて責任をとる必要がない。仮にその裁きが間違いだったとしても、誰も責任をとらない。


感情論で先導された民衆が、罪人に社会的制裁を加える。法律的には全く罪の無い人間であっても、民意の力は絶大だ。

多の力で罪人から全てを奪い、抹殺する。


先に述べた人が人を裁くシステムが、完全に再構築されてしまっている。

最初にあったはずの「法律」ベースのシステムは、どんどん意味をなさなくなってきていて、新たな「感情」ベースのシステムが主流になっている。


これはいいことなんですかね。


言論の自由が皆に与えられているのはいい事だ。だからこうしてオレもオレの駄文を発信出来る。駄文について責任をとる必要が無い。


しかし無責任に発信される数々の駄文が、民意を先導して、すぐ何かを攻撃する方向に向いてしまうのが問題だ。

結局人間て、自由に野放しにされると、すぐに何かを攻撃し始める、攻撃衝動のカタマリだ。

地球上で最も凶暴で野蛮な動物と言わざるを得ない。


本来、民主主義を極めるため、自由な議論を交わすための道具として活用されるべきSNSが、攻撃対象を探し出して、そいつに寄ってたかって制裁を加える為だけに使われてしまっているのが残念でならない。


議論を白熱させるのは自由だが、人に制裁を加えるのは、個々の民衆がすることでは無い、という明確な切り分けが必要だと思う。


顔を伏せ名を明かさず、社会に対して何も貢献しない、何もしない者。こういう人間はSNSの話題には決して登場しないから、攻撃対象にもならない。今の世の中で実は最強の立場。最強人類。


顔を出して、自らの名に責任を持ち、せっせと社会貢献している人々のアラを、先の最強人類達が探しだしてSNSで吊し上げ、民意を先導して、社会的制裁を加え、潰して消していく。目立った動きをしている人ほど簡単に潰される。

これを繰り返していたら、最強人類ばかりが残るのが当たり前。

社会の生産性がみるみる落ちていく。


アラを見つけたら、それを理由に即抹殺するのではなくて、その人がどれだけ社会に貢献してるのか、そこを勘案するようにしようぜ。社会を回している人間を杓子定規に抹殺を繰り返していては、結局損をするのは自分達だ。

もう「お前の代わりはいくらでもいる」時代では無いのだ。

自分の為に動いてくれる人間は、どんどん居なくなっている。


何が得で何が損かをよーく考えて、「大目に見る」。

これが今の世の中で失われていってる事だ。


所詮猿の毛が抜けた程度の不完全な人間様だ。格好良く「不完全」を全廃しようとしたら、結局、人間全否定、人類絶滅の道しかないことに気づいて欲しい。


他人のアラを一切許さないと言うことは、自分のアラも何一つ許して貰えない、という事なのだから。自分だけ例外、と考えている所がそもそも歪んでいる。