超高齢化社会を迎える日本。先日報道された「老後4000万円問題」をはじめ、65歳から70歳に高齢者の定義を引き上げるといった議論がなされています。

その背景にはさまざまな要因がありますが、そのひとつは医療の発達です。生存年数が長くなっているのは、とてもありがたいことですが、一方で「人が死ねない時代」に突入した時の社会的な備えは現在のところはっきり共有されていません。

未来には「積極的な死」が増えてくる?

すでに、人類は「死なない時代」に突入しています。医学が進歩した結果、死は不意にやってきて私たちの命を奪う存在ではなくなりました。そんな時代には当然、「死のあり方」が変わります。

現実に、人の死はすでに「予定されたゆっくり進行する状態」という性質を強く帯びています。

それに合わせて私たちも死の概念を変えて、納得いく幸せな区切りを迎えるための議論や準備をしなければならない。繰り返し、その必要性を申し上げてきました。

今後、「死」は与えられる存在ではなく、私たちが主体的に選択する対象になっていく可能性もあるのではないかとすら、私は考えています。

突然死ぬことが限りなく少なくなり、長い人生を通じて自分が成し遂げたいと思ったことをすべて終えてしまったとき、「もうそろそろ人生を終わらせたい」という積極的な死を願う人、元気なうちに自分の望む形の死を選びたいという人が増えてくるのではないか、ということです。

人によっては、より良い「生」を選び取るために治療を受けないという選択肢もありうるかもしれません。

医療技術が進歩し、救急医療体制が充実したことで、かなり身体の弱った人も昔に比べると格段に死ににくくなっています。

その中には、身体が相当に弱ってもできる限りの医療的手段を講じて一日でも長く生きたいと思う人もいれば、もう十分に生きたし、つらいので一日でも早くお迎えが来てほしいと切望する人もいるでしょう。

進歩した医療技術は、生きたい人もそうでない人も等しく救済します。そのような状況において、救急搬送や治療を断って医療に頼らない死を迎えたいと思う人が出てきても何ら不思議ではありません。

今は「店じまい」したいと思っても、延命治療の拒否、断食、最終的には自殺するぐらいしか方法がありません。しかし、苦しんで死にたいという人はいないと思います。最後はなるべく苦痛なく死にたいと思う人が多いはずです。

「死の選択」はもっと議論されてもいい

「ピンピンコロリ」で死にたいと言う人が多いことがそれを証明しています。

積極的な死を望む人でも、悲惨な自殺を遂げるよりは、静かな整えられた環境で苦痛なく自死できるならそちらのほうがいいと思うのではないでしょうか。

安楽死の議論をする際には、確認しておくべきことがあります。まず、宗教上の理由で自死が認められない、というケースは存在します。

宗教を大事にして生きている人からすると、そこは動かしがたい部分です。私個人は宗教を強くよりどころにして生きているわけではありませんが、自死を考えることは生への冒涜だと考えるような教育を受けてきて、自分自身の感覚としても今もそれは身についている気がします。

誰にとっても、自死、安楽死が選択可能というわけではないのです。ただ、ここでそういう事情には注意しながらも述べたいことは、自死の選択をしたい人がそれを許されることは議論されてもよいのではないか、という視点です。

宗教への帰依を含めて人間というものは常に合理的に行動できるということではありません。むしろ、その時々の状況や気紛れに左右されることも多いし、どの瞬間も自分の感性を信じ、生きたいように生きることはごく自然なことに思われます。

死に方の議論というものは比較的長期の視点に立つものなので、調子のいいときや、どちらかというと困っているときなど、様々なコンディションのもとに、時間をかけて考えていくことがよいと思うのです。