“故郷を護るため”ゲリラ戦を強いられた沖縄の少年たち 戦後PTSDになり…閉じ込められた2畳の座敷牢【報道特集】

終戦間際の1945年6月、地元のゴム工場で地下足袋づくりに従事していた。

当時17歳だった綾戸麗子さんは、兵力不足を補うために結成された「女子防空通信隊」に応募した。欧米風の制服を颯爽と着こなすその姿に、憧れていたという。

元女子防空通信隊員 綾戸麗子さん(96)
「(入隊が決まると)親子ともに飛び上がって喜んで。特に喜んだのは母親」
「あの頃は軍人は最高レベルの生活をしている人たちの集まりだった」

厳しい試験を突破し、招集されたのは地元の軍司令部…

だが待ち受けていたのは3交代制の過酷な勤務だった。

元女子防空通信隊員 綾戸麗子さん(96)
「夜中だろうがなんだろうが電話が鳴ったら取って…『空襲警報発令』『現在(敵機が)足摺岬、北上中』って、それから久留米市内にウーっとサイレンが鳴った」

担当したのは、福岡の司令部から受けた空襲警報などを、各方面の施設に知らせる任務。通報内容を少しでも間違えると、容赦なく、ビンタの制裁が待っていたという。

昼夜を問わず極度の緊張状態を強いられ、疲労困憊の日々だったが、日本の勝利を信じ、任務に邁進した。

ーー当時、自分は戦争に加担しているというような感覚は?
綾戸麗子さん
「全然ない」

ーー自覚はなかった?
綾戸麗子さん
「そんな考え方は全然ない。当たり前のことだから」

軍国少女だった綾戸さん。昭和20年の敗戦直後に感じた戸惑いを、こう綴っている。

当時の綾戸麗子さん「久留米空襲を語り継ぐ会」の冊子より
「職員室には民主主義を教える先生が赴任し、 教室では『デモクラシー』を連発し、英語のわからない私たちを戸惑わせた」

「昭和20年の前半は軍国主義、後半は民主主義の教育を受けた私たちは、いったいどんな人間になるのだろうと不安を抱いた頃もあった」