2023年の東京都の特殊出生率は0.99で全国で初めて1を割り込んだそうです。ワースト1だそうです。これこそが小池都知事の「成績表」ではないでしょうか?「カイロ大学などエジプトの国立大学では、長年にわたって教授や職員が関与し“不正卒業証書”の発行が行われてきたと根強く言われている。英語では「complementary certificate」と呼ばれ直訳は「プレゼントの証書」だが実態は“不正卒業証書”である」令和6年度(2024年4月1日時点)の東京都の職員数は33,026人で知事部局等と公営企業を含めた全任命権者総計は16万6,665人なのだそうです。

恐らくこの方々の多くが実名告発した方の証言が書かれたものを読まれているでしょうし「クールビズ」を提案した通産官僚で側近から東京地検に告発されているくらいなので他の側近の方々にも小池都知事が如何なる人物なのかわかっているでしょう?もちろんこの方々全員が都内に住む都知事選の有権者であるとは限義ませんが。

カイロの日々を知る「友」からの告発

百合子さん。もうずっとお会いしていませんがあなたの姿はテレビ画面を通していつも見ています初めて会ったのはエジプト・カイロ市内のペンションでした。あなたは19歳で私は30歳。もう半世紀以上も前1972年の春のことでした。あなたは私が滞在していたペンションに商社マンのAさんに連れられてやってきました。同居相手としてAさんが私に紹介してくれたのです。半年ほど前にカイロへ来てカイロ・アメリカン大学に通っている小池さんだと紹介されました。私は同居を快諾しあなたと2人でアパートを探しました。そしてザマレックのアパートで同居生活を始めた。あなたは冗談好きで明るく料理上手な楽しい人でした。2人で映画『ジョーズ』を観に行った時、隣で怖がって声を上げていた姿を思い出します。ある日お風呂を沸かす火が弱くて困っていると百合子さんが「こうすればいいのよ」とガスボンベをひっくり返してくれた。「底にガスが溜まっているんだから」と言って。大胆で少しお茶目。それもあなたの魅力でした。カイロの日々を今でも懐かしく思い出します。だからこそ私は深く悩み続けたのです。「黙っていたほうがいいのか、それとも世間に明らかにするべきなのか」と。でも今のあなたの立場ではこれはやはり許されないことだと思ったのです。そして事実を知りながら黙っている私もまた許されないはずだと。あなたは日本の法律に違反することをして今の地位を築きました。また権力者で居続けることによって秘密を守り続けています。私は事実を知る者としての義務を果たしたいと思ったのです。あなたに恨みがあるわけじゃない。今の地位から引きずり下ろしたくて語るわけじゃない。このまま黙って死んだのでは、私には悔いが残る。そう思いこの手紙をしたためました。

2年生でカイロ大に編入

最初に同居した時19歳のあなたは、ほとんどアラビア語を話せなかった。でも口癖のように「お父さんが来年からカイロ大学の2年生に編入できるように取り計らってくれているの」と言って特に勉強をしている様子はありませんでした。お父さんは日本で石油関係のお仕事もされていたのでその伝手があると言っていましたね。秋に私が外国人向けの語学学校に行くと言うとあなたも2回ぐらい付いてきましたね。でもすぐ辞めてしまったそしてその語学学校で出会った日本人留学生Bさんと「結婚する」と言い出した。出会って2カ月も経っていなかったので驚きました。Bさんはアラビア語のかなりできる人でしたから来年のカイロ大学入学にあたり頼れる人が欲しいのだろうと察しました。手許に残っている当時私が日本の母に書き送った1972年11月29日の手紙には「百合子さんは来年1973年10月からカイロ大学の2年生に編入できることになったのでアパートでお赤飯を食べてお祝いした」とあります。お父さんの尽力が実ったのでした。1973年2月あなたはBさんのアパートに移っていきました。新居に行くと机の上に大学の教科書が積まれていました。彼に手伝って貰いながら10月からの学生生活に備えているのだと思いました。私は2年の予定でカイロに来ましたが旅行ガイドのアルバイトをするようになり、そのままカイロで暮らしていた。すると1975年の年末あなたから「また北原さんと一緒に暮らしたい」と言われ驚きました。Bさんと離婚して行く場所がないと困っている様子でしたね私はガーデンシティに住んでいましたが、ちょうど同居していた日本人女性が帰国したばかり。受け入れることに問題はなかったのですが、少し躊躇してしまいました。というのは前回、同居した時、百合子さんとお喋りがしたくてやってくる日本人が多かったからです。日本語でお喋りをするので語学の勉強にはならないですし来客の接待で疲れてしまいました。でも離婚して行く先がなく1976年5月の大学の進級試験に向けて勉強しなくてはならない百合子さんの頼みを無下には出来ませんでした。

辞書も持っていなかった

ただ2度目の同居生活では、来客は打って変わってひとりもありませんでしたね。代わりにあなたは夕方外交官の夕食を作るアルバイトに出かけていました。日中は机に向かっていましたが「辞書を貸して」と言われ驚きました。「辞書も持たずどうやって勉強していたんだろう」と。あなたは調べた単語に鉛筆で丸を付けていましたが返してもらった辞書を開き丸の付いた単語を見て「こんな言葉も知らなくて大丈夫かな」と正直なところ思っていました。覚えているかと思いますがエジプトでは口語と文語が分かれています。日常で使うのは口語ですがインテリ層が通うカイロ大学の教科書や授業では文語が使われています。この文語はエジプト人ですら使えない人も多い。だからエジプト人でも4人に1人が留年すると言われています。それを日本人が習得するのは並大抵の努力では出来ません。他の留学生からもカイロ大学の授業がいかに難しいものであるか聞いていました外国人は入学を融通して貰えても進級試験では容赦なく落とされる。皆、大学に通いながら家庭教師を雇っていました。日本人で初めてカイロ大学を卒業した、大東文化大学名誉教授の小笠原良治さんは留学生の中では抜群の語学力だと言われましたが彼でも卒業までに7年かかったほどでした壁に「初心貫徹」と書いた紙を貼り、水を張った洗面器に足を浸して涼をとりながら、ひたすらノートに文字を書いていたこともありましたね。何を書いているのか聞くと教科書を引き写しているだけで意味はわからない、図形のように丸暗記して書くんだとあなたは言いました。そんな勉強で進級できるのか疑問に思いましたが黙って見守っていました。進級試験は5月から始まって1カ月以上続き、合否が掲示板に張り出されます。7月上旬結果を見に行った百合子さんは肩を落として帰ってきた。「落ちちゃった」と答えるあなたは暗い顔をしていました。そして「お向かいの先生のところに行って相談してくる」と言って部屋を出て行きました。私たちのアパートの同じ階に大学の教授が住んでいたからです。やがてあなたは浮かない顔で帰ってきてこう言いました。「先生から『あなたは最終学年ではないから追試を受けることができない』って言われた」私はそれを聞きあなたはお父さんのコネで入学したけれど、あの語学力ではカイロ大学の授業にはついて行けなかったのだと察しました。進級試験に落ちてしまった百合子さんはJALの現地スタッフとして働き始めましたね。チケットの販売係のような仕事でした。進路に悩んでいるようでしたが、私はデリケートなことだからと、あえて深く聞かないようにしていました。1976年8月私が旅行ガイドの仕事で日本人ツアー客を率いカイロからルクソールに向かう飛行機に乗った時のことです。飛行機がハイジャックされる事件に巻き込まれました。大勢の日本人が乗っていたので日本の新聞でも報道されました。日本の私の親にも「安否を気にする親族の声」を求めるメディアが殺到しました。この時あなたも読売新聞の取材を受けていますね。「同居する北原さんの安否を心配する日本航空駐在員の〇〇(Bさんの名字)百合子さん」として。

百合子さんが「小池」ではなく離婚しているのにBさんの名字を名乗ったことに驚きました。そして「日本航空駐在員」となっていることにも驚きました。もしかしたら記者が聞き間違えたのかもしれませんが、あくまで現地採用のスタッフで駐在員ではなかったからです。幸いハイジャック事件はすぐに解決し私はその日のうちにアパートに戻りました。約1カ月後の9月下旬日本から旅行会社の社長が来て事件に巻き込まれた私を慰労してくれることになりカイロ近郊に小旅行をしました。この時あなたも誘ったのは試験に落ちてから落ち込みがちだったので気晴らしになると思ったからです。その時のスナップ写真が今も残っています。9月終わりから10月初めにかけてのことでした。そしてある時あなたはJALの仕事を終えて帰宅すると興奮した様子で私にこう言いました。「急いで日本に行かなくちゃいけなくなったの。でもお金が足りない」切っ掛けはサダト大統領夫人の来日でした。これを知ったお父さんから電話があり「日本に帰って大統領夫人のアテンドをしろ話はつけてあるから」と言われたというのです。あなたは身の回りの物を売り航空券を買うお金を工面した。私も頼まれてあなたのアイロンなどを買い取りました。そして一時帰国をした。10月初めのことでしたね。サダト大統領夫人は40歳を過ぎていましたがカイロ大学に学生として通っていました。百合子さんのお父さんは日本アラブ協会に「娘は夫人と同級生で顔見知りだ」と言って売り込んだのだと後に聞きました。

「だって、バレちゃうからね」

日本であなたがどう過ごしていたのか私は知る由もありませんでした。でも11月半ばカイロに戻ってきたあなたをひと目見てとても驚きました。別人のように晴れやかな顔をしていたからです。そして荷ほどきをしながらあなたは「これ見て」と新聞を差し出しました。

 

百合子さんの顔写真が大きく載っている記事を読み始め私は驚きました。「カイロ大学文学部社会学科を日本人女性として初めて卒業した」などと紹介されていたからです(「サンケイ新聞」1976年10月22日)私は思わず尋ねました。「そういうことにしちゃったの?」あなたは「うん」と屈託なく言いましたね。あなたは冗談を言って人を喜ばせたり、驚かせたりすることが大好きだし、得意でした。だから悪気はなかったのかもしれません。私も注意することは出来ませんでした。落ち込んでいた姿を見ていましたし、まさか日本の総理候補になるような地位を築くことになるとは夢にも思っていなかったからです。驚いている私にこう続けました。「私日本に帰ることにした」

すべての憂いは去ったという安堵の気持ちと自信に溢れて見えました。そしてあなたは翌日から帰国の準備を始めました。ある朝ピラミッドに行くといって出ていったことも。そして明日は帰国するという別れの晩がやってきました。あなたは私の部屋に来て手のひらに小さなケースを握らせて言いました。「これプレゼント。絶対に人にあげたりしないでね」模造真珠のブローチでケースの表には「JAPAN AIRLINES」それに続く言葉を私は今も、忘れることができません。あなたは言いました。「私日本に帰ったら本を書くつもり。でもそこに北原さんのことは書かない。ごめんねだってバレちゃうからね」それでいい?とあなたに念押しをされるように言われ私は頷くよりほかはありませんでした。本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています( カイロで共に暮らした友への手紙 )(北原 百代/文藝春秋 2024年5月号)

カイロ大と小池都知事は同じ穴の貉

「カイロ大学は1954年、軍部に粛清され革命評議会下に置かれて以来その伝統は続いている。現在、軍事独裁政権トップ(シシ大統領)がカイロ大学長ならびに各学部長の任命権を持っている。学科長は軍部の息のかかった学長の任命。つまりこれまで日本のメディアからの取材に対し小池氏を卒業生として認めたり都知事就任を祝福した学長、文学学部長、学科長らは同じ穴のムジナなのだ」「小池氏が持っている卒業証書類は卒業実態なしでもらえる「complementary certificate」(直訳は「プレゼントの証書」)の可能性がある

これは学歴の問題ではなく人間として信頼できるかどうかの問題なのですが衆愚政治が行われてきた日本ですから所詮はそのレベルに相応しい人物を支持している「連合東京」などの団体の力で当選なさるのでしょうね。福島原発よりも横田米軍が垂れ流しているPFASの方がよほど問題かもしれませんよ。だってPFASって恐ろしいことに分解することがないのだそうですから。都内の中でPFAS濃度が最高で暫定指針値の27倍だったのは横田基地近くだったそうです。




3期目の都知事の後で「女性初の総理」を狙っている小池都知事の頭の中には横田米軍に立ち向かう気持ちなどさらさらなく、この問題については本当に無関心のようですね。不妊治療に助成したり無痛分娩の費用を出すのもけっこうなことですが発がん性物質などで水質汚染が起こる原因の方を断たなければ焼け石に水だと思います。「男性の長期労働時間」など様々な原因が複合的にあるとはいえ2023年の「合計特殊出生率」は1.20に対し0.99の東京都の特殊出生率は全国で最低なのだそうです。