2024年3月25日付けの「毎日新聞」の記事です【真実求める努力こそ「正義の行方」と報道の意義】というタイトルで専修大教授兼評論家の武田徹氏がジャーナリズムの重要な使命について紹介しています。来月公開予定の映画「正義の行方」を試写で見た。

取り上げられているのは1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された「飯塚事件」だ。殺人と死体遺棄などの罪に問われた人物は2008年に死刑が執行されたが弁護側は冤罪だと訴え続けている。そんな事件の捜査にあたった元警察関係者や再審を求める弁護士らの証言を集めて構成した作品はドキュメンタリー番組としてNKHBS1で放送された後今回映画化された。実は木寺一孝監督は当初から映画化を意識して使用機材や撮影方法を選んでいたという。確かに情報過多な時代になっても映画館の中まで外界の騒音は届かない。静寂の中で証言者たちの表情や生活のディテールまで克明に記録した高精細の映像と対峙する観客はどのような人生を背景にその証言をしたのか思い巡らすだろう。映画の中には西日本新聞の記者たちも登場する。事件当時地元紙のプライドをかけて取材に奔走し「重要参考人浮かぶ」のスクープに関わった記者が「(自分は)ペンを持ったお巡りさんだった」と述べるシーンは印象的だ。新聞、
放送のジャーナリズムは政治家や官公庁、捜査機関等に接触する手法をさまざまに育み得られた情報を市民社会に提供してきた。だがそれで役割がすべて果たせるわけではない。法によって国民の安全や権利が守られているはずの民主主義国家の建てつけが揺らいでいれば法のあり方や運用法に異議を申し立てることもジャーナリズムの重要な使命だ。「ペンを持ったお巡りさん」の言葉には警察情報に依存して報道し逮捕から起訴までの流れを間接的に支えてしまったことへの後悔がにじむ。そしてスクープに関わった記者が社会部長に当時の福岡県警担当サブキャップが変種局長となったタイミングで西日本新聞は「検証飯塚事件」の連載を始める。83本に渡るその記事の中で明らかになった新事実も「正義の行方」は取り上げる観客は映画館の静寂の中で次々に示される事実に意識を集中し積み上げられた先にあるはずの真実の方角へと目を向けようとするだろう。とはいえその作業は実は映画館という特殊な空間内に限られず日常的に繰り広げられるべきものだ。ネット社会で社会的議題を共に検討し合う関係を読者、
視聴者との間で維持するために必要があれば政府や捜査機関に対して異議を唱える姿勢をより明確にして不信を払拭し新事実を求めて検証を怠らない一層の努力がジャーナリズムには求められている。そんな事情を「正義の行方」は示しているように感じた。


「自分は)ペンを持ったお巡りさんだった」警察情報に依存して報道し逮捕から起訴までの流れを間接的に支えてしまっているそこの記者は果たして現在どれほどいるだろうか。法のあり方や運用法に異議を申し立てること必要があれば政府や捜査機関に対して異議を唱える姿勢をより明確にして不信を払拭し新事実を求めて検証を怠らない一層の努力が求められる記者は一体どれだけこの国にいるだろうか。ぶら下がり取材にアリの如く群がり記者会見では相手の目も見ずにPCカタカタ、下らない物言いに阿諛追従する記者ばかりではないと思いたいが圧倒的にそんな輩ばかりを目にしてしまう酷い現実。「正義の行方」が少しでもこの世をましにしてくれることを願ってやまない。この十年で日本を壊してきたのが為政者であるとすれば個人的に第四の権力マスメディアが助力していたと思えてなりません。