コンクリート造りで広さは5平方メートル。窓はなく、小屋の中と外をつなぐのは、壁に開けられた直径10センチ程度の穴五つと、食事の出し入れ口、そして排泄物(はいせつぶつ)を流し出す溝だけだ。

 

出入り口は鉄の扉で閉ざされていたという。

 

精神障害があった富俊さんは、自宅敷地内に建てられたこの小屋に13年間閉じ込められていた。

 

 

富俊さんが閉じ込められていた小屋。

 

1950年代から60年代にかけてのことだ。

 

当時は合法だった。

 

「私宅監置」という制度で、日本本土では1950年まで、戦後米国統治下にあった沖縄では72年まで続いた。

 

制度の廃止が遅かった沖縄には今も、かつて使われていた小屋が残る。

 

富俊さんが閉じ込められた小屋は沖縄本島の北部にある。

 

母屋からは10メートルほど離れ、さびた扉が小屋にもたれるように転がっていた。

 

小屋に入ると、壁の穴を通して入る光はわずかで内部は暗い。

 

穴から外をのぞくと見えたのは草と木だけだった。

 

小屋を作った男性(92)に話を聞くことができた。

 

富俊さんが大工をしていた頃の先輩だ。

 

ある時、富俊さんが包丁を持って歩き回り、警察沙汰になった。

 

男性は警察から依頼された通りに木製の小屋を作ったが、富俊さんが小屋を壊したため、コンクリートで作り直したという。

 

富俊さんは入ることに抵抗したが、男性が「みなに迷惑がかかっている。ここで静養しなさい」と言うと従った。様子を見に行くと「寂しいから出して」と言われた。

 

かわいそうに思ったが出せなかったという。

 

富俊さんの弟(74)にも会えた。弟は、監置前は母親のえりをつかみ、揺すっていた姿を覚えていた。小屋に閉じ込めてからは話すことはなくなり、食事は母親が運んだ。母屋に叫び声が聞こえてくることもあり、「かわいそうだったが、8歳くらいの私には何もできなかった。近所にも同じような小屋があり、普通だと思うようになった」

 

私宅監置は、家族が申請し行政の許可を得る仕組みだ。富俊さんもその手続きで「治安維持のために監置が必要」とされ、合法的に閉じ込められた。

 

小屋での13年を経て、富俊さんは病院に入院。

 

退院後は自宅や高齢者施設で暮らし、2017年に89歳で亡くなった。

 

「医制八十年史」(旧厚生省発行)によると、1935年には全国で7千人超が監禁されていた。

 

私宅監置に詳しい愛知県立大学の橋本明教授によると、申請理由の多くが治安維持や近所迷惑だったという。

 

「ただ、監禁された人たちの具体的な様子を記録した資料はほとんどなく、語ることも避けられてきた」(橋本教授)

 

こうしたなか、「何もしなければ当事者たちの尊厳が失われたままになってしまう。歴史の闇に消えてしまう」と危機感を募らせた人たちが、小屋の保存と私宅監置の歴史の継承に動き始めた。

 

そのひとりが、沖縄在住でフリーランスのテレビディレクター原義和さん(49)だ。

 

最初は県内で関係者に話を聞こうとしても、「なぜ過去の恥を」と反発されたが、徐々に口を開いてくれる人たちが現れたという。

 

当事者の家族や、私宅監置に関わったことを今も悔やむ元保健所職員。そうした人たちが、かつてのことを振り返りつつ、投げかける。

 

「障害者を排除する風潮は、過去のことなのでしょうか」(山本恭介)

 

(朝日新聞より引用)

 

これは今は私宅監置が精神病院に置き換わっただけで、今も続いている問題ですね。

 

精神病院に入れられて縛り付けられてクスリ漬けにされて出られないなんていう人が多くいます。

 

これを見てもわかるように地域の絆とか、地域の繋がりが強ければ生きやすいなんてウソですね。

 

地域の繋がりが強かったこの時代に私宅監置のような人権無視、排除が行われていたんですから。

 

はっきり言って地域の絆が強い、地域の繋がりが強い社会は異質なものを排除する社会と同じですよ。

 

地域の繋がりを強めようとか、地域社会とか言ってる人には要注意です。