人類が一丸となり定着させてきた
「過ち」を覆すことの難しさ

 コロナのパンデミックが始まる以前から私はこのブログを書く中で科学や医学が「あまりに誤謬にあやどられている」ことを知っていきました。最近、アメリカのブラウンストーン研究所の代表であるジェフリー・タッカーという方の記事を読みました。そのタイトルは「世界を支配する誤謬というものでした。この「誤謬」というのは難しい言葉ですが非常に簡単に書けば「誤った推論」というような意味です。つまり物事の帰結として間違ったところに行き着いた理論。そういう意味では虚偽とか似非というような言葉とは違い誤謬という言葉には、確信的に過ちに突き進むというようなニュアンスがあります。意図的に「間違った概念」を推し進めるということではなく人間が自ら導いた推論として間違ったところに着地してそれが定着する。ちなみにこの誤謬という言葉は「ごびゅう」と読むのですがかつて私はずっと「ごじゅう」と思い込んでいました。こういうささやかな誤謬も誤謬という言葉自体が教えてくれたりします(面倒くさい書き方だこと)今回はタッカーさんのその記事をご紹介させていただこうと思いますが、そういえばこの方のブラウンストーン研究所といえば前回の「この社会の最大の殺人集団は何か?…」でご紹介させていただいた元コクラン代表のピーター・ゲッチェ氏の論文も、ブラウンストーン研究所のサイトに掲載されたものでした。

この前回の記事のタイトルにつけました「この社会の最大の殺人集団は何か」ということについて私は「医師」というニュアンスで書いてしまいましたが「誤謬の歴史の中で築かれた認識であるため、悪意でも詐欺でもない」のです。まったく悪意ではない。ただ誤っているだけなのです。その誤謬を医療従事者たちは強く信じている。何百年も続く医療信仰の中で今現在「教理」として定着している医療介入にしても予防医学にしてもやはり誤謬に他ならない。そしてこの「医学の誤謬」はこれまで続いた年月を考えますと何もしなければこれからも長く長く続くのです。予防医学の歴史を考えればわかります。たとえばイギリスで天然痘の予防接種が始まったのは今から 170年前の 1853年です。天然痘ワクチンが云々ではなく世界では今も「予防医学としてのワクチン」説が主流でありそれが覆る気配もありません。実際にはあらゆる予防接種の歴史がお笑いに近いグラフを示してはいるのですが医学への忠誠と信仰心の前では、そんなグラフも目に入ることはありません

 1838年〜1978年の人口10万人あたりの英国の麻疹の死亡数の推移

麻疹ワクチンの歴史に見る「人為的介入の有害性」In Deep 2024年3月10日

この予防医学信仰も、悪意でも詐欺でもなく単に「誤謬」です。その間違いをただせる機会を失ってしまった結果予防医学としてのワクチンは 200年近く続いておりこのままだと今後も続くでしょう。今後100年でも200年でも。最近の医学での過程においてADE (抗体依存性感染増強や抗原原罪という致命的な欠陥が研究で明らかになってきても現代予防医学の牙城は揺るぎません。そしてついには私たちはこの期間の間に「世界で数十億人が同じものを接種する」という歴史上で見たこともない「誤謬の頂点」を見ました。これと同じようなことが今後も何度か起きた場合さすがにそれは人類の存亡に関わることのような気はするのです。しかしこれらは人間みずからが導きだした誤った推論であることもあり自然の流れでは、誤謬を訂正することは難しい。何でもそうです。

 コロナのパンデミック中を思い出してください。

 街中でみんながみんな消毒剤で手を洗っている(誤謬 ← ただし一部は無思考)99%がマスクを着用していたあの光景(誤謬 ← これも一部は無思考)私にとっては誤謬というより狂気の光景でしたが、しかしほとんどの人は「それで正しい」と思っている。無知や不勉強の人たちも数多くいただろうとはいえそうでもないような人も従っていた。本来ならそれなりの教育も受けているであろう人たちがすんなりあのカルト宗教にはまってしまっていました。あの頃の光景を見ていて私はよく「ガイアナの人民寺院みたい」と思っていました。人民寺院では日頃から信者たちと「集団自死」の練習を繰り返していてある日「本番となった」のでした。毒入りのジュースを飲んで自決する練習です。

2022年8月23日の In Deep より

 ここにある「いつも不気味さに包まれている感じ」はその後のワクチン展開の中でさらに激しくなりました。洗脳 → 服従という毎日メディアを通しておこなわれ続けたこの繰り返しを見て何とも重い気分になっていたものですが、しかしこの方法論は「ガイアナの人民寺院で行われていたことと同じ」でもありました。人民寺院ではその「自決の決行の日」をホワイトナイトと命名し毎晩のようにその本番の「練習」を全員で続けていました。1978年11月18日その練習は本番へと移行し人民寺院にいた信者たちは全員死亡しました。ワクチン展開の中でその光景を見続けている中で、日々「世界中が人民寺院か…」とつぶやきながら私は自身が完全にマイノリティとなったことにも気づいていました。「カルトを信じることができない」マイノリティです。

そして2020年からの狂気の世界が社会で展開された最大の理由が先ほど書きました「社会全体に定着している医学と科学の誤謬」なのです。その誤った観念を「宗教的な団結心」で、司祭(医療者)と信者(患者や一般の人たち)が守り抜いているのが現在です。考えてみてほしいですが「ガンには抗ガン剤」この誤謬でどれほどの人々が苦しみと共に消えてしまったか。しかしこのガンには抗ガン剤という誤謬に疑問を抱く人の数は今でも少数派だと思います。これだけではなくあらゆる医学に同じような誤謬が定着してしまっている

 放置しておけば何十年どころか何百年も続きますおそらくは人類が滅亡するまで続きます。ではどうすれば誤謬から解放されるのか。それは社会を変革することによってでは解決しません。「自分が変わる」しかないのです。「自分は変わった」と自分自身で思う人が増えていけばそれでいいのです。外部に表明する必要などもありません。社会全体の話ではなくすべて自分自身の話です。社会は「その自分というひとりひとりで構成されている」のですから。そんなわけでちょっと話がややこしくなりましたのでこのあたりでジェフリー・タッカーさんの記事をご紹介します。この方は文章の書き方がおそらく英語の世界では粋というような感じの書き回しが多いのですが場合により日本語ではちょっと意味が通りにくいところもありますので適度に意訳しています。【世界を支配する誤謬】Jeffrey A. Tucker 2024/04/23

賢い人は誤りを避けることを知っている。それらの 1つは前後即因果の誤謬(前後関係を因果関係だと思ってしまうこと)として知られている。ラテン語で「この後にそれゆえにこれがあるから」という意味だ。典型的な例はニワトリと日の出に関するものだ。毎朝太陽が昇る前にオンドリは狂ったように鳴き周りのみんなを起こす。その直後地平線に光が見え始める。他に何も知らずこれが起こるのを何度も見ていたならニワトリが太陽を昇らせていると結論付けるかもしれない。この基本的な誤謬はあらゆる時代あらゆる場所あらゆる主題のあらゆる科学に影響を与えている。何かが起こりその後何かが規則的に起こることを示す規則的なパターンは因果関係を意味するという仮定は人間の思考に組み込まれているものでありそれは今もそしてこれからも同じだ。それは誤謬であり必ずしも真実ではないことも意味する。それでも真剣な調査が必要であればそれは真実である可能性が出る。そしてそこに本当の問題が潜んでいる。何が原因なのかを解明する必要があるが原因物質と偶然の物質を区別することはすべての思考において最大の問題なのだ。知る必要性は合理的な生き物であることの意味に組み込まれているが私たち自身ではどうすることもできない。だからこそこの誤謬はどこにでも根強く残っている。有名なマラリアの例もある。かつてはマラリアは夜間に悪化すると考えられていたため夜間の冷気が原因であるという説が有力であった。これはジョークではない。しかし本当の理由は夕方になると「蚊」が出てくる。それが真犯人だった。しかし誤った理論に基づいた悪い理論により多くの人たちがそれを理解することをできなかった。今の時代の私たちも新型コロナウイルス感染症の影響でも同じ誤謬に圧倒された。疑似科学が圧倒的していた。私たちは来る日も来る日もこの種の疑似科学が世界中に大量に投棄されるのを目にした。ある州は集会を禁止する強制措置をとったためにウイルスの蔓延を抑制しその州の感染者数は減少したとか。これらの要因はまったく無関係である可能性がある。感染症に関する適切なデータがまったくない可能性もある。これらは(正確かどうかにかかわらず)テストの対象となり母集団レベルでは完全に間違っている可能性がある。たとえデータが正しかったとしても感染者数が少ないのは天候や事前の免疫あるいは我々が考慮していない何かが原因である可能性がある。疾病管理予防センターの官僚を含む人々がマスクをすることでウイルスの蔓延を防ぐなどのおかしな理論を作り上げ始めたがその理論(マスクが感染症を防ぐ)は科学で長い間真実ではないことが証明されていた

 事態はさらにクレイジーになっていった。マスクなしで座ることはできるが歩いたり立ったりするとウイルスが蔓延するためその場合はマスクを着用する必要があるというようなことが言われ始めるようになった。ワクチン接種後も同様だった。数え切れないほどの有名人がソーシャルメディアで新型コロナに感染したことを公表したがワクチンのおかげで軽症で済んだと述べ始めた。彼らがそれ(ワクチンを打ったので軽症で済んだという理屈)の真実を知る方法はまったくないのだ。彼らは自分たちがワクチンを接種したことが自分たちの新型コロナの症状を軽度にしたと確信していた。ここに至ればそれはもう単に信仰の問題だった。時間が経つにつれてワクチン接種の増加が感染の増加と関連していることを示す多くの研究に遭遇した。一方がもう一方を引き起こしたのだろうか。それは語るのは難しい問題だ。過去数年間の膨大な数のワクチン研究がこの問題の影響を受けている。特に厄介なのは「健康なユーザーバイアス」の問題だ。ワクチン接種を受けた人は他の面でもより服従し従順になる傾向があるということだ。これは当初は新型コロナワクチン接種によって健康上の成果が向上しているように見えたことを意味するが、 しかし実際にはこのバイアスによるものだった。これは後の研究で明らかになったが、しかしランダムノイズから原因と結果を識別するという問題は依然として残っている。医学の分野は長い間この問題に取り組んできた。患者に出血させる習慣(瀉血)が 19世紀に至るまで何世紀にもわたって続いていたことを私たちは残念に思う。どうして彼らはそこまで愚かだったのだろうか?彼らは病気は血液中の悪い体液によって引き起こされるので血液を排出する必要があるという理論を持っていた。彼らは患者の状態が良くなったのを観察した。しかし患者は出血させずにさらに早く良くなったかもしれないのだ。最終的にそのことが間違いだと気づくまでには何世紀もかかった。多くの非対症療法医学関係者は長い間この問題について叫び続けてたが彼らは変人として無視された。それは瀉血が最も専門的な名声を持つ人々によって支持された従来の慣習だったからだ。この誤謬が働いているのを一度見るとそれを無視することはできない。誤謬は医学のいたるところにあるが経済学、健康、園芸、法律、社会学そしてすべての物理世界の科学にも誤謬がある。問題のある誤謬が今日の膨大な政治を動かしている。既存の経済状況すべてを既存の大統領のせいにする傾向があるが本当の原因はさらに遡る必要がある可能性がある。それでもほぼすべての議論は同じ方針に従う。たとえば医薬品。今日人々は医薬品を信じている。問題が何であれ研究室で作成された新しい薬で解決できると信じている

 その結果多くの証拠が乏しいにもかかわらず私たちは社会全体としてこれらに染まっている。たとえば精神科薬の効果を調べれば調べるほどそれらが実際の問題を改善するかどうかまた実際に問題を悪化させる可能性があるかどうかまたその程度が明らかになっている。抗生物質についても同様だ。現在すべての親が小児耳感染症に対してアモキシシリンを使用している。しかし私の祖母は耳に温めたミネラルオイルを塗り従来の薬を完全に避けることを誓っていた。抗生物質の使用の有無にかかわらず子どもたちにハーブオイルを摂取させた場合をランダム化するという 2003年の研究を発見するのにほんの数分しかかからなかった。

研究の結果は「差はなかった」だった。医薬品からの影響は大きい。私たちは医薬品や対症療法の戦略に執着しすぎているためより効果がある膨大な自然療法やホメオパシーの手法を見落としている可能性がある。1つの解決策に固執しそれに固執し続けると人間の心は他の可能性のあるより良い解決策について創造的になることができなくなる。何世代にもわたって誤った考えが日々を支配することもある。今も数多くある誤謬を見ることができなくなっているのだろうか。