第二次世界大戦を演じた人たちは全てユダヤ人

ヒトラー(独)チャーチル(英)ルーズベルト(米)スターリン(露)
そしてヒトラーはユダヤ・ロスチャイルド卿の孫にっこり楽しそうに笑う女の子を男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると素晴らしく幸せな写真だ


写っている男性がアドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして女の子がユダヤ系でなければ。ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。
22年前のイスラエル国のホームページでのユダヤ庁(The Jewish Agency for Israel )の世界のユダヤ人人口は戦前も戦後も1500万人台だった。処が10年ほど前では、戦前は1500万人台で戦後は1100万人に変わっていた。尚このホームページを最近では検索できない。ヒトラーもナチス幹部も無論下士官、最下級の一兵卒でさえ誰もユダヤ人を殺せなどの言葉を一度足りとも発していないし無論、証言や記述の証拠も皆無である。

※赤色がユダヤ人。青色がユダヤ人も含めた全死亡者数

ナチスの収容所で死んだユダヤ人は600万人ではなく僅か3万人であり然もその死因は毒ガスではなく、ユダヤ人の不潔さから蔓延した発疹チフスによるもの。それにもかかわらずヒトラーはローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は米国でオークションにかけられることになった。写真はヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。

「ヒトラーはプロパガンダ目的でしょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかしこの作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に親近感を抱いていたようなので。愕然とした」「ヒトラーの恋人」ヒトラーと女の子は誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。競売サイトによるとローザさんは1933年母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外にはナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。それからまもなくしてカロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。


ヒトラーは少女がユダヤ系と知りながら友情を育んだ。しかしそれでもヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真はサインをして送っている。「親愛なるそして(思いやりのある)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」とヒトラーは書いた。ローザさんは後にこの白黒写真に自分で花を足しているようだ。ローザさんは1935〜1938年の間に少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。
ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンがローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。
部下のこの命令をヒトラーは気に入らなかったようだと写真家のホフマンは後に書いた。ホフマンは1955年に発表した回顧録「Hitler Was My Friend(ヒトラーは友達だった)」で「私のあらゆる楽しみを台無しにするのが本当にうまい連中がいる」とヒトラーが自分にぼやいたのだと書いている。ホフマンはさらに同書に「ヒトラーの恋人」(キモすぎる)とキャプションをつけて2人の別の写真を掲載。「ベルクホーフで少女に会えるのをヒトラーは楽しみにしていた。しかしそれはお節介な誰かが少女が純粋なアーリア人の血統でないと発見したため終わってしまった」のだという。ボルマンがヒトラーと少女の接触をやめさせた翌年、第2次世界大戦が勃発した。6年後の終戦までにユダヤ人600万人が死んだ(註)
死んだのは非ユダヤ系ポーランド人とドイツ人である。ヒトラーは未来のユダヤ国家創建の国民を集めるためユダヤ人を収容所に入れるが大切に扱った。ローザさんも戦争を生き抜くことはなかった。ポリオにかかりヒトラーと初めて会った10年後の1943年17歳でミュンヘンの病院で亡くなった。(英語記事 Remarkable tale of Hitler's young Jewish friend)