■I・G・ファルベン社
ヒトラー・ナチスを支えたドイツ企業のオーナー達はユダヤ人であった「I・G・ファルベン社」は1925年にドイツの8大化学会社が合併して設立された。「I・G・ファルベン社」の株主はユダヤ人が多く、社長もカール・ボッシュというユダヤ人だった。ヘルマン・シュミッツが初代会長に就任した彼はナチス御用達の銀行だった「BIS(国際決済銀行)」の設立にも参画し第二次世界大戦終了時まで役員を務めた。
「I・G・ファルベン社」は1939年までにドイツの外貨の90%、輸入高の95%を稼ぎ出しかつ「4ヵ年計画」に基づいた軍需製品および工業製品の85%を製造した。従業員は10万人に達し世界の大企業の中でもアメリカの「GM」「USスチール社」「スタンダード石油」につぐ4番目化学会社としては世界最大の企業にのしあがった。「I・G・ファルベン社」はドイツの化学工業をほぼ独占しナチス戦争経済を維持するうえで不可欠だった2つの製品を供給した。それは合成石油と合成ゴムでその大半はアウシュヴィッツで運営していた同社の巨大化学工場で被収容者を労働力にして製造されたのである。アウシュヴィッツ強制収容所入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200518/09/minaseyori/b2/97/j/o0470073014760490767.jpg?caw=800)
強制収容所にかき集められたユダヤ人は労働者として寧ろ大切に扱われた。結婚や文化活動やスポーツなどは自由であり出産や子育てにも配慮されていた。※画像はアウシュビッツ第三収容所の中の巨大化学工場(モノヴィッツ)
戦時中ドイツの「I・G・ファルベン社」の建物は一切空爆されることはなかった。大東亜戦争(太平洋戦争)では日本の都市部周辺のみならず田舎町にある工場まで空爆された
「I・G・ファルベン社」はアメリカ企業、特に世界最大のロックフェラー財閥の石油会社「スタンダード石油」(エクソン、海外ではエッソ)と密接な関係にあった。「スタンダード石油」はルーマニアの油田をドイツにリースし更にハンガリーの油田を売り渡してナチス政権を助けた。また「スタンダード石油」はナチス政権のために毎週1万5000トンの航空燃料を生産する製油所をドイツ国内(ハンブルグ)に建設してもいた。
このような状況を憂えた経済学者のヘンリー・ウォルドマンは1943年2月26日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙に次のような意見を載せた。「考えても見てください。戦争の真っ最中に敵国を実際に手助けをしている国がアメリカなのです。
そればかりではなくスペイン大使が詳細に述べているようにアメリカはこのような援助を続けるばかりか援助を拡大する準備までしているのです。スペインは『敵国』です。しかしそれでもアメリカはスペインを援助しているのです。」それでも状況は改善されなかった。毎月4万8,000トンのアメリカ産の石油がスペインを経由してナチスに供給され続けたのである。
「フォード社」の創業者ヘンリー・フォードは熱烈な反ユダヤ主義者であった。1919年に『ニューヨーク・ワールド』誌で初めて反ユダヤ主義を表明し1920年にはユダヤ人に対する悪意に満ちた『国際ユダヤ人』を出版した。ユダヤ人がユダヤ人を自らを凌辱するユダヤ人が描いたシナリオの一つ。ヘンリー・フォードはヒトラーを溺愛し1922年という早い時期から外国人としては初めてナチスに資金援助をした。
その見返りとしてヒトラーはフォードの大統領選挙立候補を助けるために突撃隊の派遣を申し出た。ヘンリー・フォードは1938年の75歳の誕生日に非ドイツ人に与えられたものとしては最高のナチス・ドイツが制定して以来3人にしか授与されていない「ドイツ大鷲十字章」をヒトラーから授与されている。
フォード親子はイギリスのために航空機エンジンを製造することを断わりその代わりにドイツ陸軍の輸送部隊の主力となった5トントラックの部品の製造を始めた。その上アメリカ国内のタイヤ不足にもかかわらずドイツへのタイヤ輸送も手配していた。「フォード社」からタイヤ輸出の30%はナチスが支配する地域に出荷されていたのである。1940年に「フォード社」はナチス占領地域にあるフランスのポアシーに自動車工場を建設しドイツ政府に納入するための航空機エンジンの製造に着手した。またこの工場はドイツ陸軍のトラックや軍用車両の製造も手がけた。更に「フォード社」は北アフリカにも自動車工場を建設しロンメル軍団のためにトラックと装甲車を製造した。こうして1942年にはナチス・ドイツで使用されていたトラックのうち約3分の2をフォード製が占めるようになった。
アメリカのデュポン一族が経営する「GM」とナチスの関係はフォードに負けず劣らず親密なものだった。「GM」とナチスの関係はヒトラーが政権を握った時から始まった「I・G・ファルベン社」のアメリカの子会社「GAF」は「GM」に多額の投資をしていた。「GM」の経営陣も1932年から1939年までの間「I・G・ファルベン社」の工場に合計3,000万ドルの投資をしていた。※ 「GM」の欧州総支配人であるジェームズ・ムーニーはヘンリー・フォードと同じようにヒトラーから勲章をもらっている。1929年「GM」は当時ドイツ最大の自動車メーカーだった「オペル社」を買収した。1931年に「オペル社」は「GM」の「完全子会社」となり、ドイツ自動車市場の40%という圧倒的な地位を占める事になる社名は1985年に「アウディ」に変更され1964年以降は「VW社」の傘下に入っている。
■「オペル・ブリッツ 3.6」
1930年代の中頃になると「GM」はドイツでトラック、装甲車、戦車の本格的な生産に取り組んでいたスイスではドイツ陸軍のトラックの修理とガソリンをメタノールに変換する作業を請け負っていた。ドイツのリュッセルスハイムにある「GM」の子会社「オペル社」の工場は第二次世界大戦を通じてドイツ政府のために軍用機を生産していたが特にドイツ空軍で最も殺傷力が高かった中型爆撃機である「ユンカースJu88」のエンジンの50%を製造していた。また「オペル社」はナチス軍用車の装備をほとんど製造してきた。下の画像は、ユンカースJu88
1943年に「GM」のアメリカ工場がアメリカ陸軍航空隊の飛行機を整備している間にドイツの「GM」グループは世界で最初のジェット戦闘機であり連合国を震撼させた「メッサーシュミットMe262」用のエンジンの開発に成功した。デュポン一族の工場がそのジェット・エンジンを製造し組み立てたのである。
但し予定されていた「メッサーシュミットMe262」用のBMW 003エンジンは信頼性が低かったため代わりにユンカース社のJumo 004エンジンを取り付ける。「GM」も「フォード社」と同じく多数の強制労働者を使い主要工場ではナチスの人種等級区分が適用されていた。SS(ナチス親衛隊)が工場の強制労働者を監視していたというがその多くは女性であった。当時全世界を三分していた三大化学トラストである「デュポン社」「I・G・ファルベン社」「ICI社」(イギリス)は、敵味方に分かれた戦争中もそして戦後も国籍に関係なく一貫して友好関係を保ちもちつもたれつで仲良く共存共栄を図ろうとしていたのである第二次世界大戦中の「デュポン社」は「原子爆弾」の生産を除外しては考えられない。「マンハッタン計画」が密に計画された頃この計画の中心人物レスリー・グローブス将軍は「デュポン社」に協力を求めた。これを受けて「デュポン社」はシカゴ大学の監督のもとにまずテネシー州オークリッジの付近に試験工場を建設し次いでワシントン州ハンフォードにプルトニウム工場を建設した。
「これまで世界で企てられたもののうちもっとも大規模でもっとも困難な工業企業」はこうして実現されたのである。
※上の画像左が広島に投下されたナチスドイツが開発した劣化ウラン型原爆リトル・ボーイ。右の画像が、長崎に落とされたマンハッタン計画によるプルトニウム型原爆ファット・マンもっともこれらの巨額の費用は「デュポン社」が自腹を切ったわけではない。全て「国費」である。
核分裂は1938年12月、ナチス政権下のドイツ「カイザー・ヴィルヘルム研究所」において発見された
その衝撃的なニュースは、翌年1月に学会参加のため渡米したデンマークの原子物理学者ニールス・ボーアによってアメリカの関係者に伝えられた。その伝聞は直ちにアメリカ国中に広まり各地の大学で「核分裂」に関する研究が一斉に開始された。
一方ナチス・ドイツは1939年4月末に「核分裂」の研究を本格化させた。「カイザー・ヴィルヘルム研究所」に大型の原子炉が造られて、原子力の可能性が探られるようになった。「『カイザー・ヴィルヘルム研究所』で原爆リサーチを行なっていたナチスの科学者たちは、戦後イギリスへ連れて行かれ『ファーム・ホール刑務所』へ一時的に拘留された。その時イギリス情報局は当然これら科学者の監房に盗聴器を仕掛けておいた。1945年8月6日に広島に原爆が落とされた時そのニュースはラジオを通じてこれら科学者たちにも知らされた。彼らの反応が興味深かった。盗聴されているとは知らずに彼らは広島に落とされた原爆について色々な反応を示したがひとつだけ一致した反応があった。それは『なぜドイツが作った原爆が友好国日本に落とされたのか』という驚きの反応だった。これによってイギリス側はドイツの原爆開発がいかに進んでいたかをつかんだのである。
(原爆威力の実験結果とその後どうなるかの人体実験の為落とした。特に広島原爆に興味持ち表向き病院と名乗り何の治療もしずに人体実験データーを全て米が持ち帰った鬼畜米英🇺🇸🇬🇧昔の歴史からしても呪われてるんじゃ無い?と思うくらい異常者多いよね?流石サイコパス国家なだけあるよねwwww脳みそ溶けてる?
アメリカの作家エドウィン・ブラックが『IBMとホロコースト ─ ナチスと手を組んだ大企業』という本を出した。彼によると「IBM」の創業者トーマス・ワトソンはヒトラーから「メリット勲章」(ドイツで2番目に位の高い勲章)を授かるほどナチスに貢献し彼にとってヒトラーの第三帝国は世界で2番目に大きな取引先だったという。ブラックは次のように告発する。「IBMはもともとドイツの子会社を通じヒトラーのユダヤ人撲滅計画遂行に不可欠な技術面での特別任務を請け負い恐ろしいほどの利益を上げた。IBMこそ現代の戦争に情報化という要素を持ち込みこともあろうにあの戦争でナチスの“電撃戦”を可能にした張本人なのだ。」当時コンピュータは存在しなかった。がコンピュータの先駆をなす機械を「IBM」は開発していた。
パンチカード機器の「ホレリス」がそれである。ナチスは「IBM」の提供したパンチカード技術を使い、ドイツ国民の名前、住所、家系、銀行口座などの情報がすばやく参照できるようにした。その技術で同性愛者を「ナンバー3」ユダヤ人を「ナンバー8」ジプシー(ロマ)を「ナンバー12」などと区分していたのである。(「D4」のコードは殺害された被収容者を意味していた)。
ヒトラーはユダヤ人嫌いだからユダヤ人の開発したものを嫌ったからという説があるが果たしてそうであろうか。シュペーアはその手記『ナチス狂気の内幕』に彼が軍需大臣になってからヒトラーが新兵器の開発や量産を故意に遅らせ無意味な失敗を繰り返させたと何度となく書いている。純粋に第三帝国の勝利のために全力を注いでいたシュペーアにとって、ヒトラーの態度は全く理解できないものだったという。ヒトラーは開発した原爆や生物兵器を使用することは無かった。ヒトラーは勝利するために開発したのではない。これらの研究開発は米国のユダヤ国際金融資本が指揮する米国政府に引き渡すことが目的であった。そして当初のシナリオ通りナチスは敗北する。
このヒトラーの敗北シナリオは山本五十六と類似する。山本五十六は米軍が無意味と称していた真珠湾攻撃と更にはミッドウェー海戦で護衛艦無しに航空母艦を出撃させ思惑通り航空母艦4隻を海の藻屑(もくず)とし日本の帝国海軍をせん滅させたその任務を終えた山本五十六はその後の1943年4月南方前線視察途上ブーゲンビル島上空で米軍に撃墜され死んだことになっている(海軍甲事件)。然し山本五十六は戦後生きいる姿をニューヨークやワシントンで何名かの知人に目撃されていたという。ヒトラーも同様ナチスドイツ敗戦の任務を終え用意されたUボートで南米に渡りブラジル人の恋人と共に95歳まで生きた。無論一般的な潜水艦より小さなUボート。ドイツから南米まで無事に然も燃料の補給なしに行けるはずはない。補給したのは米海軍である。下の画像は晩年のヒトラー
余談だがこれと似た状況が大東亜戦争敗戦の直前の日本にあったとの説がある。昭和天皇の金塊を積んだ日本の潜水艦が東シナ海から南シナ海そしてインド洋、スエズ運河経由でイタリアに無事到着している。無論航海の途中護衛と燃料補給をしたのは米艦隊である。この天皇の金塊については10年前だったかイタリアで日本の債券が違法に関連した事態が発生したが日本政府とマスメディアは必死に隠蔽した記憶がある。
間違ってるかもだけど🇺🇸に持ち金取られたくない為スイス銀行へ移したらしい。鹿児島で日本人を拉致した北朝鮮の漁船ような船に燃料補給をしたのは日本の海上自衛隊補給基地である。