欧州の多くの国ではホロコースト=大虐殺、イコール、アンネの日記)を否認もしくは疑いを抱かせる記事や論文著者は刑務所にぶちこまれる無論裁判での新たな反論も許されない。《アンネの日記の内容とは全く異なる概要》

 ●ホロコースト(ナチスのユダヤ人大量虐殺)はなかった。

●ナチの収容所のガス室で殺されたユダヤ人の数は600万人ではなく0人。
●ガス室自体が無かった。
ガス室と称する部屋はシラミ駆除用のもの。

● ガス室は戦後に新築されたものであるとポーランド政府が認めている。「アンネの日記」は少女アンネ・フランクが書いたものではなくユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビン(男性)がアンネ又はポーランド等の少女の日記を参考にし捏造して創作した小説。依頼者はアンネの父ユダヤ系ドイツ人オットー・ハインリヒ・フランク。このアンネの父親のオットー・フランクは5万ドルという大金(現在の貨幣価値で約2億円)を払ってまでゴーストライターに娘の名前で小説を書かせた。アンネの日記が世界的に売れるようになるとこの版権をめぐって依頼者であるアンネの父親オットー・フランクとゴーストライターのユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビン(男性)が裁判で争う。この最高裁の判決の書類2241-1956はニューヨークの地方事務所にあるはずなのだがこのファイルは消えてしまっている。都合の悪い輩が抜き取った

 1980年ドイツでひとつの裁判が行われた。ドイツの雑誌デア・シュピーゲルによると「アンネの日記は偽書である」と主張するエルンスト・ロエマーをアンネの父オットーが訴えた。ドイツの捜査当局BKA(FBIに相当)は訴えを受けてアンネの日記の科学的分析を行った。その結果日記4冊目(15歳の時)がボールペンで書かれていると判明した。BKA(ドイツ連邦刑事捜査局)研究所で実施されたテストの結果は作品の一部特に第4巻がボールペンで書かれたことを示しています。ボールペンは1951年以前には入手できなかったためBKA(ドイツ連邦刑事捜査局)はこれらのセクションは後で追加されたに違いないと結論付けましたこの最後の部分が偽書であるのならアンネの日記全体の真贋が問題となる。なぜならば日記4冊目15歳の時の筆跡が1冊目13歳の時から3冊目14歳の時までと同じだったからである。1980年10月9日付の「ニューヨーク・ポスト」にはエルンスト・ロエマーがこの『アンネの日記』は真実ではなく小説である事を追及し続けて裁判に持込んだ事が書かれている。二度目の裁判でこのロエマーの申出は正当と認められた。 つまり『アンネの日記は真実ではなく単なる小説であるということである。以下はアンネの13歳の時の手紙画像

字体は幼稚で然も左に傾いている。

《アンネの日記画像》

13歳になった誕生日から亡くなる15歳までの日記の一部。アンネ・フランクの最初の日記の複製。アンは1942年6月12日13歳の誕生日プレゼントに最初の日記帳を受け取った。原本はアムステルダムのアンネフランクの家に展示されている。

 1冊目

この13歳の日記では日記をペンで書いたから字の太さや色が日によって違ったりするが4冊目の15歳の日記ではボールペンで書いているから常に一定の太さ。お確かめ下さい。

 同じ13歳の時でも手紙では左に傾く彼女の幼稚な字体はこの日記では右に傾く普通レベルの字体に変化している。

アンネフランクの<em>ストーリーと別館からのイベント</ em>アンは隠れて短編小説おとぎ話エッセイを書いた。1943年9月2日彼女は細心の注意を払ってそれらをノートにコピーし始め出版された本に似せるために目次を追加した。彼女はそれに別館からの物語と出来事というタイトルを付けた。

14歳

アンネフランクの<em> Book of Nice Sentences </ em>隠れることで本は熱烈な読者であるアンにとってますます重要になった。彼女はヘルパーが持ってくる新しい本を待ちかね彼女は日記に彼女の読書経験についてコメントした。アンは父親に励まされ1943年8月14日にこのノートブックに他の作家からのお気に入りの引用を記録し始めた。彼女はウィリアムシェイクスピア、ジョンガルスワージー、ヨハンヴォルフガングゲーテなどの作家や、看護師フローレンスナイチンゲール、画家ピーターポールルーベンス、作曲家フランツリストの伝記から文章をコピーした。アンはオランダ語、ドイツ語、そしていくつかの英語を読む。これらのページで彼女はオスカーワイルドの「理想の夫」のセクションを英語でコピーした。

 14歳 3冊目

アンネ・フランクの第3日記ノート
1944年4月17日、最後の一冊となる日記を書き始める。
最後の日記の日付は1944年8月1日。

15歳 4冊目

ルーズページ5月20日から1944年8月4日の逮捕までアンは日記のほぼ3分の2を元のノートからルーズページに転記しその過程で様々な修正を加えた。

 Entrance to the Secrete Annex

秘密別館への入り口

1954年の写真。アンが2年間家族や他の4人と共有した隠れ場所の入り口をカバーする本棚。但しこれらの階段や本棚は戦後アンネの日記の記述内容に沿って改造したものであることをポーランド政府が認めている。この記事の様に第二次世界大戦前のユダヤ人人口数と戦後のユダヤ人人口数は大した変化が無いので、後に戦後のユダヤ人人口数は書き換えられ大幅に減少したことになっている。