7年前のことだが、中国人観光客が「ハイヒトラー」をやったから当然逮捕された。独議事堂前でナチス敬礼中国人観光客2人逮捕。

ドイツではナチスやヒトラーを想起させる憎悪発言(ヘイトスピーチ)や図画・シンボルなどの使用を法律で厳しく制限している。36歳と49歳の男性2人はそれぞれ500ユーロ(約6万5000円)の保釈金を払い釈放された。警察によると、有罪となれば最長3年の禁錮刑が科せられる可能性もある。同様の処分は通常、極右団体の関係者に対して適用されることが多い。警察報道官はAFP通信に対して捜査中でも男性2人は出国が認められる上罰金刑になったとしてもすでに払った保釈金でそれに充当することができるだろうと話した。ナチスのホロコースト(大虐殺)否認イコールアンネの日記の捏造主張や疑惑を抱く記事や論文を掲載したら主に欧州の国において違法とされ逮捕され刑務所入りとなる。或いは殺害されたり襲撃され資料などは焼かれる。

  

 拠ってアンネの日記を否定することは出来ない。ここには言論の自由は無い。無論裁判などでもアンネの日記を正当化する虚偽の証明や主張を覆すことは不能となっている。これはユダヤ系国際金融資本が欧米各国の政府を支配している証拠であり、無論日本政府も支配されている。1990年代、ヨーロッパの7か国でホロコースト否認に反対する明確な法律が制定されました。そして今では18ヶ国に及んでいます。つまりアンネの日記はホロコースト(大量虐殺)が実際にあったという証明に使われこれらに疑問を抱く見解や研究者は逮捕され、禁固刑や実刑で懲役刑になったのです。例えば収容所のユダヤ人は国際金融資本の作った大規模工場で働き収容所内での婚姻は自由であり収容所長が結婚証明書を発行していた。

ナチスの収容所での各月別死亡者数グラフ


※ 赤色がユダヤ人。青色がユダヤ人も含めた全死亡者数
アウシュヴィッツ収容所の記録による各月の死亡者数赤色がユダヤ人。青色がユダヤ人も含めた全死亡者数アウシュヴィッツ等(Auschwitz, Treblinka, Belzec, Sobibor, Chelmno, Majdanek.) 各収容所での人種構成はユダヤ人の割合が10%~40%でありこれら収容所で死亡した人数は600万人ではなく合計で6万5千人。内キリスト教徒が3万5千人、ユダヤ人は3万人。つまり、ホロコースト(大量虐殺)は無かったのです。以下ニューヨークポスト紙の記事。

 Anne Frank may not have inked that famous diary

アンネ・フランクはその有名な日記を書いていないだろう

"The results of tests performed at the BKA laboratories show that portions of the work [Anne Frank's diary], specially of the fourth volume, were written with a ballpoint pen."

Al Fredricks, New York Post, October 9, 1980- アル・フレッドリックスニューヨークポスト祇1980年10月9日

ドイツ連邦刑事捜査局(BKA)の報道によると アンネ・フランクの日記の部分は 1951年以降に変更されたか追加され全作業の真正性に疑問を呈していると西ドイツのニュース週刊誌デア・シュピーゲル(Der Spiegel)が明らかにした。この手書きの日記はアンネの父であり強制収容所で生き残った唯一の家族であるオットー・フランクが「アンネの日記は偽書である」と主張するエルンスト・ロエマーを名誉毀損で訴えた訴訟で西独法廷の命令により調べられた。これはフランクの長年の批評家であるロエマーに対する第2の訴訟であった。最初の訴訟では裁判所はフランクを支持し、歴史家と筆跡学者の証言が日記を認証するのに十分であると判断した。しかしフランクが死去する8月19日の少し前の4月原稿日記はBKAドイツの "FBI")の技術者に調査のため引き継がれた

原稿日記はハードカバーの3冊のノートの形で4冊目のノートブックは綴じていない324ページを装丁したもので特別な装置で検査された。

(中略)

ドイツ連邦刑事捜査局(BKA)の実験室で実施されたテストの結果では日記の一部、特に四冊目の一部はボールペンで書かれていることを示している。ボールペンは1951年以前には入手できなかったので、BKAは四冊目はその後に追加したものに違いないと断定した。つまり二度目の裁判でこのロエマーの申出は正当と認められた。しかし原稿日記の調査では最初の3つのノートの真偽についての推測を解決する決定的な証拠を発見しなかった。アンネ・フランクはベルゲン・ベルゼン収容所で発疹チフスで病気になり1945年3月に死亡したとしている。