「ハンセン病、障害、優生思想とは」
戦後の「平和と人権の」憲法下において「優生保護法」(1948年)が「国民優生法」(1940年ナチス・ドイツの断種法がモデル)を改定して、優生手術対象者に新たにハンセン病者を組み込む形で成立した。また、戦前の「(旧)癩予防法」が1953年に「(新)らい予防法」として(96年の廃止に至るまで)基本的に継続されてきた。民衆側の基本的人権尊重思想の受容の不徹底さ(日本民衆自身が獲得した憲法ではない!)や障害者やハンセン病を含む病者への差別や忌避感(近代的な能力主義と結合)を「当たり前のもの」として問うこともしなかった問題がある、ということです障害者、病者への差別・忌避感を、「優生思想」と呼んできました。「優生思想」と次項に述べる「優生学」と結びついた社会政策(優生政策)の国家による「必要性」ということが、戦後もハンセン病者への隔離・収容が継続していった関係にあるが、未だに答えを見出すには至っていない。(2)優生学とその拡大適用
「遺伝学」と「ダーウィン流の進化論」とを結合させて生まれた「優生学」なるものは「生命の優劣・選別」という価値観をストレートに持ち込んでいる点において、近代科学としての必要条件を元々満たしていないエセ「科学」そのものでしたその「研究成果」で「優生」な「生」を生み出す事が出来ないという否定的状態も明白になっていたのに、そういう状況の中で「優生学」自体の存続のためには、社会の多数派の「社会的必要性」に応える形で「不都合な生」を「劣生=あってはならない生=撲滅すべき生」として選別(隔離―絶滅)する政策の道具に成り下がっていく、ということが起こりました。それが「去勢」や「不妊手術」「強制堕胎」を強行することを合法化するという、各国各種の「優生法」の成立や、行政命令を生み出しました。そこには「なんとしても『人間の優劣を規定している要因』を探ろう」として人体実験すらいとわない「優生学者」の利害と国家の社会的統合力の危機に対応するために「邪魔な生を『劣った生』」として社会から「隔離・撲滅していこう」(ナチスの大量安楽死のケースは、一般化はされなかったが)とする国家の社会防衛政策との結合でした。
(3)優生学と優生思想
日本においては、近代以前には、主として「穢れ」という忌避観念と「因果応報」「親のまたは前世の因果が子に報いという考え)の仏教の概念がありました。これが近代になり遺伝学・進化論を背景にした優生学によって、遺伝と関係付けられて正当化され、現在いわれている優生思想として定着していった。近代以前は基本的には障害者、病者は「放置されて」いました。厳しい差別はあったにせよ、社会から意図的に隔離・収容はされていなかったようです。「新・旧らい予防法」や「優生保護法」の示しているような「撲滅」の対象ではなかったのです。近代での優生学・優生思想がそれを可能にしたのです。日本が近代国家に仲間入りをした事で、国民国家づくりの一環として国家が介入し、民衆の中にあった差別・忌避感を利用し「劣った人」「危険な人」として隔離・収容の対象へと編成され直してきたのです。時期的には日露戦争後の20世紀初頭の1900年「精神病者監護法」1907「癩(らい)予防ニ関スル件」それ以降、特に1931中国侵略開始と「旧癩予防法成立」とそれを下から支える「無らい県運動」があり、以降は「ハンセン病隔離政策」と「民族浄化による富国強兵」が一体化したものとして展開されていきました。問題点は、らいは遺伝病でなく感染病であるとわかった後にも、ハンセン病者に対して、優生政策が取られたのか?です。これは「遺伝性」や「(人間能力的に)劣った生」とは証明できない障害者、ユダヤ人、シンティ・ロマ人に対して「安楽死政策=絶滅政策」を取ったナチス・ドイツとも共通することです。国家による「国民の生物的劣生」を作り出す「元凶」として、これらの人たちが位置づけられ、それに対する「撲滅」的政策を「正当化する」ために優生学→優生思想が最大限活用されていたことです。民衆も、その危機感を根っこに、存在してきた優生思想と結びつけることによって「共鳴」一体化して来たという冷厳な事実でしょう(ハンセン病の場合「無らい県運動」の経験抜きに、90年にもわたる隔離―撲滅政策の存続はありえなかったことでしょう。私たちはそのことをしっかりと胸に刻んでおく必要があります)余談ですがナチス・ドイツを詳しく知りたい方は昔の映画ですが「クリムゾンリバー②」を観ると、ヒトラーの理想とした世界観が分かるかと思います。
⚠️ただしグロいのでグロが苦手な方はやめた方がいいかなとは思いますが…。