手塚治虫の作品でも「ロボトミー」扱う
『快楽の座』:鬼頭教授がサルの脳内にスチモシーバーを植め込み、「よろこべ」、「歩け」、「食え」の命令に従った。そのサルたちを襲おうとしたライオンが鬼頭教授の「やめろ、おそうな」と命令するとピタッと止まり、「ねろ」の命令でコテンと寝てしまう。ヒトに応用するつもりであることをブラックジャックに話すと「人間にはきけんですよ」と忠告するも、「そんな心配をしていたら医学の進歩は難しい」と取り合わず、3-4年全然笑い顔を見せないトカゲをかわいがる三郎を連れてきた母親に対して、「はっきり鬱病体質ですよ。それは病気なのです。」と話す。スチモシーバーを植め込み根ピューと連結し、電波を三郎君の脳に送り、脳に作用して暗い心を消してしまうと説明され「よくわからないけれどそれが最良の方法なら」と手術をお願いする母親。術後三郎は笑うようになったが、以前かわいがっていたトカゲを床に叩きつけて殺しても笑っており、勉強をするように話す母親の陰で漫画を読み、それがばれて母親に起こられるが、それでも笑い続けるようになった。鬼頭教授の受診日に、この治療法を医学会に報告するとして背中を受けた瞬間に三郎は教授の背中をナイフで刺して逃亡する。そのことがニュースになって騒ぎとなり、コンピュータの破壊を勧められるが、鬼頭教授は破壊するとショックで三郎も死んでしまう設定で、コンピュータを操作できるのは鬼頭教授しかいないが、重症で操作困難である。ブラックジャックが麻酔薬を打ち、スチモシーバーを摘出する手術を行い、救命できたが、それ以前の三郎に戻り、笑顔が消え、トカゲだけと遊んでいた。最後に母親に対して、治療の処方箋として渡した紙に書かれていた内容は以下のものだった。
1. 三郎君に今後絶対に勉強を押し付けない
2. 三郎君を一日中子供部屋の中へ閉じ込めない
3. 三郎君に好きな趣味をさせる
4. 三郎君について無理強いをしない

少年チャンピオン1975年1月20日発売4号
1977年に「ロボトミーを美化」するとして障害者団体などが、手塚治虫と秋田書店を相手に抗議をした。ただ抗議を受けたのはこの作品ではなく、1977年1月1月号の『フィルムは二つあった』で内容は以下のものである。ある映画監督が脳性まひの息子の成長記録をフィルムに取り続けていた。監督は脳性まひの治療場面をラストシーンにしたいと考えてブラックジャックに手術を依頼する。手術は成功するが、無免許医師が執刀する映画ということでクレームが入る。それを予測していたブラックジャックは親友の意志のこの手術に立ち会わせていて、親友が手術しているように見えるもう一つのフィルムを用意していた。抗議の内容は、当時『人間らしさを失う後遺症』や『人体実験である』と問題視されていたトボトミー手術で脳性麻痺が治ったとされる描き方が障害者にとって福音であるかのように美化していて差別を助長する・・・という理由からであった。しかし、記載されている内容は『頭蓋骨切開(ロボトミー)は頭頂骨両側から行う』そして脳に電気刺激を与えるだけで脳の切除や切開は行っていない。
恐らく『頭蓋骨に穴をあける』という行為を『ロボトミー手術』と誤解していたと考えられる

1936年、モニスと同僚のアルメイダ・リマ (Almeida Lima) は、当時すでに知覚を脳に伝える部分として知られていた視床と、知性と感情をつかさどる部分とされていた皮質に繋がる神経繊維を、外科手術で切断することに世界で初めて成功する。この手術は、それから10年程で世界で広く行なわれるようになった。モニスの方法をアメリカ合衆国ウォルター・フリーマンジェームス・W・ワッツ英語版が改良し、前部前頭葉白質切截法(ロボトミー)として確立した。それによりモニスは世界で広く知られ、名声はノーベル医学賞受賞という形で最高潮に達する。受賞の理由は「ある種の精神病に対する前頭葉白質切截術の治療的価値に関する発見」である。 65歳のとき、自分の患者に銃撃されて脊髄を損傷し、身体障害者になった。1955年、ポルトガルのリスボンで死去した。81歳没。ロボトミーは、主に統合失調症の治療に用いられたが、患者から人間性を不可逆的に奪う深刻な副作用が問題視されて、1975年頃にはまったく行なわれなくなった。現在では悪評の高い手術となっており、薬物療法が一般的となっている。アメリカ合衆国などでは、現在でもロボトミー手術の被害で廃人になった当事者と、その家族たちが、エガス・モニスのノーベル生理学・医学賞受賞取り消しのための運動を行っている。精神科の考えや歴史から精神科は優生学に繋がると言われている。ロボトミーは治療という名の人体実験である。