僕はロシアの小説家、アントン・チェーホフの短編小説が高校生の時から大好きだった。
チェーホフと言えば戯曲の名人と云われる。
太宰治の代表作である〔斜陽〕もチェーホフの〔櫻の園〕から着想を得たと云われる。
チェーホフは作家人生の初期になんと探偵小説を何編か書いている。
特に〔狩場の悲劇〕は後年の作家達に影響を与え続け、40年後にアガサ・クリスティに代表作のひとつ〔アクロイド殺し〕を書かせる事になる。
チェーホフの短編小説はどれも大したストーリーはない。平凡な登場人物が平凡な1日を送るだけだ。
今日のアニメや漫画はストーリーで引っばっていく。だからチェーホフが読まれなくなった理由が分かる
戯曲も小説も登場人物の内面を追求して外的筋立はなにもないに等しから、評論家からチェーホフの戯曲や小説からは何も起こらないと評価されたのは有名である。
しかし、ひとたびハマると小説を作る天才だと唸ってしまう。
井上ひさしはチェーホフの功績を❶主人公と云う考え方を舞台から追放した。
❷主題と云う偉そうなモノを絶縁した。
❸筋立の方法を変えた。と評価している。
しかしこれは今までの小説や戯曲の全否定である。
アントン・チェーホフに〔チェーホフの銃〕と呼ばれる小説論がある
小説に銃が登場したらそれは発砲されなければならないのだ。発砲しないなら小説に書いてはいけない。
ストーリーに無用な要素を盛り込んではいけない。チェーホフはプロットに穴の空いた小説ばかり読まされこの論理を確立した。
チェーホフの銃は探偵小説(推理小説)には必須だが、現代人もやたら発射されない銃で武装してる気がする。
我等現代人の人生は形容詞ばかりで書かれた凡作だ。