辰野 金吾 (たつの きんご、 安政元年8月22日(1854年10月13日) - 大正8年(1919年)3月25日) は明治・大正期の建築家である。工部大学校(現・東京大学工学部)卒業。工学博士、東京帝国大学工科大学学長、建築学会会長。設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。東京帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太、長野宇平治、武田五一、中条精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。
東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てたフランス文学者、辰野隆は子息である。
経歴
1854年(安政元年)肥前国(現在の佐賀県)唐津藩士、姫松蔵右衛門の次男として生まれる
1868年(明治元年)叔父の辰野宗安の養子となる
1873年(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学 2年終了後、造船から造家(建築)に転じる
1877年(明治10年)ロンドン出身のジョサイア・コンドルが造家学教師に着任
1879年(明治12年)造家学科を首席で卒業(同期生に曽禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎)
1880年(明治13年)英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学ぶ
1883年(明治16年)帰国
1884年(明治17年)コンドル解雇後、工部大学校教授
1886年(明治19年)帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの建築学会)設立
1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長
1902年(明治35年)工科大学を辞す
1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を開設(東京)
1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を開設(大阪)
1910年(明治43年)国会議事堂(議院建築)の建設をめぐり、設計競技(コンペ)の開催を主張
1919年(大正8年)当時大流行したスペインかぜに罹患し逝去。
東京駅
日本銀行
銀行集会所 (1884年/現存しない)
工科大学校本館 (1888年/東京都/現存しない)
日本銀行本店 (1896年/東京都/重要文化財)
旧日本銀行大阪支店 (大阪府)
旧日本銀行京都支店 (京都府/重要文化財)
浜寺公園駅 (1907年/大阪府堺市 )
第一銀行神戸支店 (1908年/兵庫県神戸市/外壁保存)
国技館 (1909年/のち日大講堂/東京都/現存しない)
旧日本生命九州支店 (1909年/福岡県福岡市/重要文化財)
奈良ホテル (1909年/奈良県奈良市)
岩手銀行中ノ橋支店 (1911年/岩手県盛岡市/重要文化財)
松本健次郎邸 (1911年/福岡県北九州市/重要文化財)
万世橋駅舎(初代) (1911年/東京神田/中央線終着駅(当時)。関東大震災で崩壊。昭和になり交通博物館敷地。2006年閉館。さいたま市に移転予定。)
旧日本銀行小樽支店 (1912年/北海道)
旧日本教育生命保険(現:シェ・ワダ)(1912年/大阪市)
中央停車場 (1914年/現・東京駅、東京ステーションホテル/重要文化財)
武雄温泉新館・楼門 (1914年/佐賀県武雄市/重要文化財)
大阪市中央公会堂 (1918年/大阪府大阪市/実施設計/重要文化財)
韓国銀行ソウル本店
※建物名の後の「重要文化財」は国指定の重要文化財を示す。
余談
唐津では、のちの首相・日銀総裁、高橋是清に英語を学んだ。高橋の後を追って上京し、工学寮に入学した。
相撲好きで子の隆を相撲部屋に入門させた。国技館も設計した。
辰野が得意とした赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、「辰野式」とも称される。別人が同様のスタイルで設計し、辰野設計作品と誤解されているものもある。
文献
工学博士辰野金吾伝(白鳥省吾編)
日本の建築 明治大正昭和 国家のデザイン(藤森照信、三省堂)
関連書
東京駅の建築家辰野金吾伝(東秀紀、講談社)
- 東 秀紀
- 東京駅の建築家 辰野金吾伝