唐代のデータや史話をランダムに書いていきます。学術的なねらいはありませんが、史実に沿いたいとと思っています
天授三年9月酷吏王弘義は誣告[理由不明]し、無定見な則天は自分が登用した文昌左丞同平章事姚璹を司賓少卿とし、冬官尚書同平章事李游道、秋官尚書袁智弘同平章事袁智弘、司賓卿同平章事崔神基、文昌右丞同平章事李元素、夏官尚書同平章事王璿を嶺南に流した。使い捨ての宰相と言えるが、在任期間も短くわけがわからない人事である。姚璹.李元素は後に復相した。
天授三年7月則天は文昌左相同三品武承嗣を特進、納言武攸寧罷を冬官尚書、夏官尚書同平章事楊執柔を守地官尚書とした。三者は則天の親族であり処罰ではないが宰相職からは離した。思いつきで親族の宰相兼任は不可とおもったのかもしれない。
天授三年一月左台中丞來俊臣等酷吏達はさらに残った宰相達[則天が登用した]が謀反を企てていると誣告し、定見の無い則天は動揺し、鳳閣侍郎同平章事任知古、冬官侍郎同平章事裴行本、地官侍郎同平章事狄仁傑を死刑しようとした。しかしまた動揺し解任し県令として左遷することにした。狄仁傑はのちに再任用された。
則天は甥の武承嗣を皇太子にしようと考えたが、宰相達に諫止され、確信をもてずに動揺し中止した。激怒した承嗣や武氏一族は酷吏達と組んで謀反を告発した。天授二年10月そのため文昌右相三品岑長倩、地官尚書同平章事格輔元、司禮卿判納言事歐陽通、鸞臺侍郎同平章事樂思晦は殺害された。旧唐時代からの宰相陣は一掃されたとみてよい。
則天派の鸞臺侍郎同平章事傳游藝は湛露殿[皇帝の居所・政務の場]に昇殿した夢をみて、それを洩らしたため、天授二年9月不敬として告発され自殺した。補足天授二年8月納言武攸寧罷は解任され左羽林衛大將軍となったが、9月また納言に復帰した。
民政に秀で則天即位時に宰相に任用された納言史務滋だが、天授二年1月に酷吏來俊臣により雅州刺史劉行感の謀反に連座していると誣告投獄され、懼れて自殺した。則天は無罪と思っていたが救おうとはしなかったが一族への連座は止めた。
則天は天授元年9月に即位し大周帝国を開き、一族を王に封じ、史務滋.宗秦客.傅游藝などを宰相とした。秦客の母は則天の堂姐にあた り、則天文字などを献策して迎合しており検校内史となった。ところがさっそく一族をあげて収賄に励み、新政を築こうとした則天の逆鱗にふれ、10月に遵化県尉に貶された。弟楚客・晉卿等も左遷された。学才に優れた内史邢文偉もまた秦客に連座して珍州刺史に貶され、さらなる追求を懼れて自殺した。秦客は流地で没した。
かって娘を皇太子弘[則天が殺害]の妃に差し出していた太子少保兼納言裴居道は、高宗が生きていたため、その後も宰相として延命していたが、則天の唐宗室一掃の方針により酷吏に誣告され天授元年8月下獄死した。
身をすくめて則天に迎合することにより唐皇族として生き残っていた司徒舒王元名もまた用済みとなり、天授元年7月酷吏侯思止は謀反を企てていると誣告し、則天はただちに和州に流して殺害した。
酷吏周興は天授元年4月歴史家であった春官[禮部]尚書同平章事范履冰がかって推薦した官吏に則天に逆らった罪を犯した者がいたと誣告し、軽率な則天は履冰を投獄し殺した。補足 蘇良嗣剛直であった特進同三品蘇良嗣は則天の信認をうけていたが天授元年3月に卒した。
則天の信認を受けていた地官尚書同三品韋方質にたいして、立太子を求める武承嗣や武三思は盛んに媚を売り取り入ろうとした。しかし方質はこれを拒否したために承嗣等の恨みをかい、天授元年1月その指嗾により酷吏周興に誣告されて失脚し儋州へ流され、10月には殺された。補足則天の手先として活躍していた左肅政臺御史大夫同三品王本立は病となり天授元年1月辭し地官尚書となった。そして2月には卒した。
地官尚書兼檢校納言魏玄同は、酷吏周興に深く怨まれており、「則天は老耄しており、早く皇嗣に政権を戻すべきだと」言っていると誣告された。そのため永昌元年閏9月に殺された。
李敬業の乱平定に功績があった内史張光輔は、酷吏に唆された弓嗣明[配流地より逃亡して捕まった]の誣告により両端を図っていたとされ、永昌元年8月に殺された。
武官として昇進してきた韋待價は文昌右相[右僕射]同三品となったが宰相としての才識はなかった。永昌元年5月安息道行軍總管として吐蕃征討に赴いたが大敗し、多くの将兵を失った。そのため則天の怒りを買い繡州に流されて病死した。
高宗没後、則天は皇族達の警戒心をとくため韓王元嘉を太尉、霍王元軌を司徒、舒王元名を司空[三名は高祖の子、太宗の弟]という高位だが実権のない地位につけた。諸王は地方の刺史として出され中央での役割はない状態であった。垂拱四年7月則天の圧迫に耐えかねた越王貞や子沖が蜂起したが脆くも敗れて殺され、それを理由として唐の皇族の粛清が始まった。絳州刺史太尉韓王元嘉を乱に連座させ殺害し、青州刺史司徒霍王元軌を配流した。元軌は途次に卒した。そして多くの皇族を誅殺した。
再度登用された左肅政大夫同平章事騫味道は、部下の殿中侍御史周矩と合わずよくいじめていた。「味道は唐の諸王の乱に連座している」との密告があり、矩がその捜査にあたり厳しく取り調べ有罪とした。そして子の辞玉とともに垂拱四年12月殺された。
鳳閣侍郎同鳳閣鸞台三品劉禕之は部下の鳳閣舎人賈大隱に「則天はおかしくなってきている、即位よりは皇帝に政権を戻す方が良い」と洩らしたが、さっそく大隱に密告された。垂拱三年5月則天が派遣した王本立に「皇帝の正式命令ではない」と取り調べを拒否し殺された。睿宗皇帝はとりなしをしたが無視された。補足 韋思謙垂拱三年3月納言韋思謙は病により太中大夫として致仕し、その後79歳で卒した。
垂拱元年5月納言王[侍中]德真が解任されて同州刺史となり、即日嶺南象州に配流された。理由は不明だが德真は、傀儡皇帝睿宗に親しく、即位しようとする則天の目障りとなったためかもしれない。德真のその後は不明である。
則天派として登用されてきた内史[中書令]騫味道だが、左遷人事に不満を訴える官僚に「それは則天の意向なんだから」と答え、同僚劉禕之は「宰相合議の結果だ」。それを知った則天は「面倒なことは私に押しつけるのか」と怒り、味道を垂拱元年4月に青州刺史に貶し、禕之には加階した。しかし味道はまもなく左肅政臺御史大夫に復帰し、また宰相になった。
貶降記87 沈君諒.崔詧同じく李敬業の乱に際して裴炎弾劾にあたり崔詧とともに右史[起居舎人]より躍進して宰相とされた正諫大夫同平章事沈君諒だが宰相としての見識はなく垂拱元年2月に罷免された。その後は不明である。崔詧沈君諒とともに裴炎失脚後に著作郎から抜擢された正諫大夫同平章事崔詧であるが、やはり宰相としての見識はなく、垂拱元年3月河北に派遣中に罷免された。その後夏官侍郎になったようだが永昌元年閏9月殺害された。理由は不明である。