貶降記17 楊嗣復・李珏
開成五年正月文宗皇帝は32歳で病死した。神策中尉仇士良達に圧迫されていたとはいえ、知樞密劉弘逸や薛季陵など親近する宦官もいた。士良等は幼少の皇太子成美を殺害し、文宗の弟武宗を擁立し、李党の李徳裕を任用し、反対する牛党の楊嗣復や李珏を排斥した。記録が混乱しているため嗣復と珏が同時に左遷されたのか、それとも珏はあとから別の理由で出されたのかは判然としない。5月か8月 門下侍郎平章事嗣復は湖南觀察使に、8月門下侍郎平章事珏は太常卿とされ、すぐ桂管觀察使へ出された。嗣復はさらに潮州刺史→司馬へ落とされ、武宗時代は左遷地におり、宣宗時代に刺史にはもどったがすぐ卒した。珏も昭州刺史→司馬と落とされ武 宗時代は左遷地にいたが、宣宗時代に復帰し高官を歴任した。武宗[仇士良]は嗣復・珏を誅殺しようとしたが徳裕や杜悰がそれを諫止したという話がある。