貶降記40 裴澈.蕭遘 附.鄭従讜
黄巣より京師が回復できたが、観軍容使田令孜は禁軍の経費のために河中節度使の鹽池の権利を得ようとし、節度使王重榮を逐おうとした。しかし重榮は河東李克用と同盟し禁軍を撃破し、反って僖宗・田令孜は山西興元に逐われた。邠寧節度使朱玫はその失策に乗じて嗣襄王を皇帝に擁立した。一時は勢力があったが、令孜の引退と、克用・重榮の不同意により、興元の禁軍が反攻し、王行瑜の裏切りもあって玫を誅した。光啓三年三月玫に同調して嗣襄王派となった左僕射門下侍郎平章事裴澈や司徒兼門下侍郎平章事蕭遘達が殺され、観望していた太傅兼侍中鄭從讜は免ぜられて太子太保となった。澈や遘は僖宗の無能と令孜の専権についていけなかっただけであるが、擁立の責任を問われた。