唐代のデータや史話をランダムに書いていきます。学術的なねらいはありませんが、史実に沿いたいとと思っています
宣宗時代の十年間も政務を専断していた司空門下侍郎平章事令狐綯も、懿宗時代となり排除されることになり、大中十三年12月使相河中節度使に出され、地方に追われていた白敏中が復帰してきた。しかし完全に失脚したわけではなく、子滈に対する弾劾に激しく反論するなど影響力は保っていた。高官を歴任したが復相することはなかった。
◎.幽州節度大使兼河北支度營田使。□.当時河北は水災などで大飢饉であり、幽州都督李尚隱[開元15~17]が帶河北支度營田使を帯びた。◎.隴右節度副使兼關西兵馬使。□12月隴右 張志亮兼經略支度營田等使。已後為定額。□.制以吐蕃為邊患,令隴右道及諸軍團兵五萬六千人,河西道及諸軍團兵四萬人,又征關中兵萬人集臨洮,朔方兵二萬人集會州防秋,至冬初,無寇而罷;伺虜入寇,互出兵腹背擊之。
補足翰林学士時代から宣宗の信任が厚かった工部尚書平章事劉瑑は、大中十二年正月に河東節度使から財務担当として抜擢されて入相し、実務にあたっていたが病気となり四ヶ月で卒した。補足宣宗に信任されていた守門下侍郎平章事兼工部尚書蕭鄴は、大中十三年11月懿宗即位により排除され使相荊南節度使として出された。 その後も高官を歴任した。