張献功(ちょうけんこう)の墓 | 沖縄の裏探検

張献功(ちょうけんこう)の墓



那覇市牧志(まきし)1丁目に緑ケ丘公園があります。この公園はナイクブと呼ばれた海岸線に近い場所でした。
ナイクブ一帯は墓地の多い地でしたが公園を整備する際に移動されました。公園内には一部の墓が残っていますが、公園裏手の路地に張献功という人物の墓があります。この路地の左が緑ケ丘公園側になります。
この先の左側にある駐車場の一角に進みます。


暫く行くとフェンスで囲まれた駐車場があります。緑色のテントで囲まれた後ろの岩の下に墓があります。


テントの裏にひっそりと残っています。


墓の右側にニービヌフニ(砂岩)の墓碑があります。表面の磨耗が激しく文字が殆ど判別しません。


岩を掘り抜いたフィンチャー墓で、墓口は石で塞がれています。石積みにはセメントを塗り込んでいました。

この人物は豊臣秀吉の朝鮮出兵で薩摩に連れて来られた陶工の一人です。
1616年、薩摩にいた尚豊(しょうほう、後の尚豊王)の要請によって、薩摩から張一六、安一官、安三官の3名が琉球に派遣されました。その中の張一六が張献功で、通称『いちろく』と呼ばれました。
陶工達は湧田村(わくたむら、現在の那覇市泉崎)へ住まわせられて陶器製造の技術を伝えました。中でも一六は湧田窯の祖となりました。

一官と三官は琉球を去りましたが、一六だけはそのまま残りました。一六は帰化して仲地 麗伸(なかち れいしん)と名乗り後進へ技術を伝えました。
その後、一六は壺屋村へ移動して陶業を盛んにしました。没年は1638年とされています。現在は子孫が参拝しています。

沖縄の陶器は『やちむん(焼き物)』と呼ばれ、分厚くて様々な色や模様が施されています。
大和(日本)から入ってきた陶磁器や、交易で得た東南アジアや中国からの陶磁器の影響を受けながら地域性のある独自の形になりました。
張献功が伝えたとされる技術も今に伝わっているのでしょうね。