勝連(かっちん)グスク | 沖縄の裏探検

勝連(かっちん)グスク



うるま市勝連南風原(かつれんはえばる)の海岸近くにある標高約63メートルの丘陵にあるグスクです。
最高点となる主郭の一之郭は標高約98メートルで、勝連半島を広く見渡せます。4つの郭と東郭を合わせて約11867㎡の面積があります。
築城年代は14世紀初め頃で、築城者は英祖(えいそ)王統二代目の王である大成(たいせい)王の五男とされています。
別の説では12~13世紀には築城されていたともされています。

昭和30年の古瓦の出土を皮切りにグスク式土器、須恵器、宗代と元代の中国陶磁器、炭化米、獣骨、ガラス、刀、鎧、古銭等多数あり、珍しい物では2013年には3~4世紀頃のローマ帝国の銀貨も出土しています。
1972年に国指定史跡となり、2000年に世界遺産となりました。


西原御門(いりばるうじょう)と呼ばれた門があったとされる場所から四之郭へ入ります。城内には井戸や拝所も多くあります。
とても整備されていますが30年ぐらい前はこの辺りは草がボーボーでした。今は木製の階段があって散策しやすくなっていますが、元々は急斜面で手すりも無い急な石段になっていました。これは敵の進入を難しくする工夫ともされています。


階段を上がって三之郭へ進みます。ここは主に祭祀を執り行う場所として使用されていたとされています。


正面には石段があります。


石段を上がると二之郭となります。ここには正殿とされる建物があった場所です。
今は礎石だけが残っていますが、これだけの数の柱がある建物はかなり立派な造りとなっていたと考えられています。


二之郭の奥にウミチムンという火の神があります。二之郭が生活空間として使われていた名残とも思われます。


ウミチムンの右側にウシヌジガマという洞窟があります。緊急の事態に身を隠して難を逃れたとされています。


更に上に進みます。かつての旧道はこの様に急斜面で歩くのが困難でした。
今は階段があるので楽に上がれます。


頂上へ続く石段は往時のまま残されています。上がるにつれて幅が狭くなっているのも、敵の進入を鈍らせる工夫とされています。


最頂部は一之郭です。
ここには交易で得た物を保管した倉庫があったという説があります。


一之郭には玉ノミウヂ御嶽(うたき)という拝所があります。
グスクの守護神を祀ったという拝所で大きな岩が霊石とされています。
穴は二之郭のウシヌジガマに繋がっていたという話があります。

勝連グスクは初代の勝連按司(かっちんあじ)から5代目まで続きました。5代目の勝連按司に世継ぎがいなかったので、伊覇按司(いふぁあじ)の六男を養子にしました。
他の伝承では5代目の勝連按司は伊覇按司と争って滅ぼされた話もあります。
6代目城主となった伊覇按司は浜川按司(はまかわあじ)と戦って滅び、8代目まで浜川按司が城主となりました。
その浜川按司は茂知附按司(もちづきあじ)に滅ぼされ、茂知附按司が9代目城主となりました。
茂知附按司は酒に溺れて政治をしなくなったので阿麻和利(あまわり)によって滅ぼされました。

阿麻和利は貿易を行って力を蓄え、勝連には繁栄をもたらせました。『おもろ』という歌謡には勝連が大和の京都や鎌倉に例える内容のおもろがあります。

最後の城主となった阿麻和利についての伝承があります。
力を増していく阿麻和利を看過できなくなった王府は当時の王であった尚泰久(しょうたいきゅう)の娘である百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利へ嫁がせます。

阿麻和利は尚泰久の王妃の父である護佐丸(ごさまる)を『謀叛の疑いがある』として讒訴して、自ら王府軍の総大将となって護佐丸を討ち滅ぼしました。
歴代の王に仕えた護佐丸を滅ぼして邪魔者がいなくなった阿麻和利は次に首里を狙う為に兵馬を整えました。
百度踏揚に付き従っていた鬼大城(うにうふぐしく)はそれを知って密かに百度踏揚と共に首里へ逃げました。
百度踏揚と鬼大城が逃げた事を知った阿麻和利は急いで後を追い、首里グスクへ攻撃を仕掛けました。
百度踏揚から襲撃を知らされていた王府軍は阿麻和利軍を撃退しました。

王府軍は鬼大城を総大将にして勝連グスクへ兵を向けました。
難攻不落の勝連グスクに手を焼いた鬼大城は女装をして城壁を登り、城内で阿麻和利を見つけて討ち取りました。その後、阿麻和利亡き後の勝連グスクは廃城となりました。

これは1458年に起こった『護佐丸、阿麻和利の乱』といわれる事変ですが、勝者側の王府が編纂した書物にある内容なので『嘘をついて護佐丸を討った阿麻和利を王府が討伐した』と阿麻和利を悪役にした都合の良い話となっています。
実際は権力を持っていた護佐丸と阿麻和利を除く為に、まず阿麻和利を利用して護佐丸を討ち、その後に王府が阿麻和利を討つ画策をしたとも考えられています。

『おもろ』には阿麻和利や勝連を讃えるものがたくさんあります。阿麻和利によって滅ぼされた茂知附按司と思われるおもろもあります。
多くの輸入陶磁器や大和式の武器や防具の出土は、勝連グスクや勝連が首里に匹敵する大きな勢力となっていたのは間違いなさそうです。
阿麻和利亡き後は廃城になったとされていますが16世紀頃の青磁が出土しています。