羽地 朝秀(はねじちょうしゅう)の墓 | 沖縄の裏探検

羽地 朝秀(はねじちょうしゅう)の墓



那覇市首里平良(たいら)町2丁目にチャーギ山と呼ばれる標高約100メートルの丘陵があります。昔この丘陵はチャーギ(イヌマキ)がたくさん生えていたのでそう呼ばれているという事です。
住宅街の中にチャーギ山に入るチャーギ道という細い道があります。この道は末吉宮参詣道(すえよしぐうさんけいどう)と呼ばれた石畳道で、先にある末吉宮への参詣道です。石畳は戦争中に日本軍によって取り外されて一部だけが現存しています。


暫く上がって行くと道が右に折れる場所に来ます。右に曲がると羽地御殿(はねじうどぅん)の墓への近道ですが、現在は倒木等があって進み難くなっています。今回は真っ直ぐ進みます。


途中から石畳が出ている場所があります。


墓地帯の途中に右に上がる道があります。そこから右上方向に進みます。


右上に進んで行くと大きな亀甲墓があります。これが羽地御殿の墓です。この墓に羽地朝秀も眠っています。


墓庭に石碑があって『贈 正五位 羽地朝秀之墓』と刻まれています。
この石碑は1922年に建立されました。


墓口はかなり大きくて石積みで塞がれています。


屋根の高さもとても大きな墓です。

羽地 朝秀は1617年、王族分家の首里士族の家に生まれました。朝秀が産まれた時代は1609年に薩摩の侵攻を受けて国内がまだ動乱していた頃でした。
朝秀が16歳の時に朱子学を伝えに来ていた泊如竹(とまりじょちく)という人物に出逢います。
如竹は薩摩の僧と深い付き合いがあり、朝秀は後にその人脈も政治に活かす事になります。

1650年、朝秀は当時の王である尚質の王命で中山世鑑(ちゅうざんせいかん)という正史を編纂します。
これは今でも沖縄の歴史を紐解く元になっている重要な物です。

1660年に失火によって首里グスクが消失しました。その際に朝秀は薩摩に渡って再建の為に奔走します。王府の財政は危急となっていました。
そして数々の功績によって166年に薩摩藩の推挙で摂政(しっしー)という地位まで登りました。
当時は三司官(さんしかん)という三人の人物が王府の政治を執り行っているのが通例で、摂政はその三司官を纏める役職でしたが実際には名誉職みたいな地位でした。
しかし朝秀は積極的に政策に関与しました。

『羽地仕置』という政策を纏めたものによると風紀の乱れや役人の不正の取り締まり、身分の明確化、と色々な政策を打ち出します。
王府の財政を圧迫する久高島参拝の神事も政治から切り離す事にしました。これは『日琉同祖論』にもとづいて執り行れました。

琉球は薩摩の侵攻以降、明(みん、現在の中国)との進貢を10年に1度とされてしまいました。更に琉球を介して明との貿易を目論んでいた薩摩からも支配されました。
羽地 朝秀は現実の世界を見据えて生き残る為の生涯を過ごした政治家となり、琉球の五偉人の一人と呼ばれる様になりました。


那覇市首里大中(おおなか)前1丁目に朝秀の生家跡があります。
今は駐車場となっています。