識名宮(しきなぐう)
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那覇市の繁多川(はんたがわ)に琉球八社(りゅうきゅうはっしゃ)と呼ばれた社の一つがあります。
識名宮はその八社の一つであり、戦前戦後を通して地域に親しまれています。
子孫繁栄や子宝祈願、子育大願等々にご利益があると言われています。海から離れているだけあって大漁祈願は無いみたいです(^_^;)。
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社殿は近年に建て替えられて綺麗になっています。
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境内を境に隣側に広場があります。
この広場には神応寺(じんのうじ)と呼ばれた寺がありましたが、戦争で破壊されて現在は公民館の一部になっています。
識名宮の由来に一つの話があります。
宮の後方には洞窟があり、夜になると洞窟から光が立ち上ぼりました。
そこで大阿母志良礼(おああむしられ)という高級神女職の人物がその洞窟を調べたところ、洞窟の中にビジュルという霊石がありました。
時の王であった尚元(しょうげん)の長子であった尚康伯(しょうこうはく)が病に伏せって明日をも知れない状態になり、霊石に祈ったところ病がたちまち良くなりました。
そこで識名宮と神応寺を建てたのがはじまりとされています。
神応寺には煕山周雍(きざんしゅうよう)という和尚がいたとされており、1456~87年の間に神応寺が建てられたとされています。
尚康伯は1557~1575年の人物なので、実際には神応寺が先に建っていた事になり、識名宮と一緒に建ったという事ではない様です。
理由はどうあれ、神応寺も残っていたら文化財としての価値もあったかと思われます。
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識名宮の向かいにバス亭があり、その裏に神道(かみみち)という小さな路地があります。
そこを真っ直ぐ進むと住宅地の裏側にある広場に着きます。
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そこにはタキグサイという拝所やウビーガーという井戸跡があります。
ここは繁多川の拝所として綺麗に整備されています。
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広場の端に大きな拝所があって火ヌ神(ひぬかん)が祀られています。
この火ヌ神は各家庭の大元の火ヌ神とされていて大切にされています。
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広場の近くには小禄(おろく)家という名家の墓があります。
最近、綺麗に改装されていますが、左側にある茶色の石碑は1846年の物でとても貴重な墓碑です。
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路地を抜けると、南側に延びる幅の広い道があります。
画像では北側を向いてますが、この辺りは識名原(しきなばる)と呼ばれた地です。
薩摩侵攻の際に捕虜になった浦添親方(うらしぃうぇーかた)の息子である真大和、百千代、真かるの三名が縄を使って首里グスクを脱出しますが、この地で薩摩軍の追っ手と斬り合いになり討ち死にしたとされています。
現在は交通量が多い識名宮の周辺ですが、歴史が至る場所に残っています。